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コルカタのマザー・テレサ列聖式:教皇「最も貧しい人々に神を認め、奉仕する生き方を」


9月4日、バチカンでコルカタのマザー・テレサ(1910-1997)の列聖式がとり行われた。

教皇フランシスコは、聖ペトロ広場でミサをとり行われ、その中でマザー・テレサを聖人として宣言された。

教皇はこの列聖ミサの説教で次のように話された。

「神の計画を知りうる者がいるでしょうか」(知恵の書9,13)。先ほど第一朗読で耳を傾けた、この「知恵の書」の問いは、わたしたちの人生を一つの神秘として示しています。この神秘を解く鍵は、わたしたちの所有ではありません。歴史の主役は常に二者です。それは神と、人間です。わたしたちの課題は、神の招きを知ること、そしてその御旨を受け入れることです。しかし、それを迷いなく受け入れるためには、何が神の御旨なのだろうかと、わたしたちは問うのです。

「知恵の書」の同じ章にその答えは見出されます。「人はあなたの望まれることを学ぶようになった」(知恵の書9, 18)と。神の招きを知るためには、神が好まれることは何なのかを問い、それを理解しなくてはなりません。預言者たちは何度も、神の喜ばれることは何であるのかを告げています。預言者たちのメッセージは驚くほど簡潔です。「わたしが喜ぶのは、愛であっていけにえではない」(ホセア6,6; マタイ 9,13)。神はあらゆるいつくしみの業を喜ばれます。なぜならわたしたちが助ける兄弟の中に、誰も見ることのできない神の御顔を認めることができるからです。わたしたちが兄弟たちの必要のために身をかがめるたびに、わたしたちはイエスに食べさせ、飲ませ、神の御子に服を着せ、支え、そのもとを訪問したことになるからです(参考:マタイ 25,40)。すなわち、わたしたちはキリストそのものに触れるのです。

つまり、わたしたちは祈りの中で願い、信仰において宣言することを具体的な形にするようにと招かれているのです。愛において他の方法はありえません。兄弟たちに奉仕する者は、神を愛する者です。(参考:1ヨハネ 3,16-18)。しかしながら、キリスト教的な生き方とは、必要な時に与えられる単純な助けとは違うのです。もしそうならば、すぐに与えることが可能な助けによって人道的連帯を感じることもできるでしょう。しかし、それに根がない限り、不毛なものとなるのです。主がわたしたちに望まれる努力は、そういうものではなく、キリストのすべての弟子たちが自分の人生をもって奉仕し、毎日愛のうちに成長するという、愛の召命なのです。

わたしたちは福音朗読で次のような言葉を聴きました。「大勢の群集がイエスと一緒について来た」 (ルカ 14,25)。今日、この群集は、広いボランティアの世界に代表されます。ボランティアの皆さんはいつくしみの聖年のために今ここに来ています。皆さんは師イエスに従うあの群集です。そしてイエスの一人ひとりに対する具体的な愛を目に見える形にする存在です。使徒聖パウロの言葉を皆さんに繰り返したいと思います。「わたしはあなたの愛から大きな喜びと慰めを得ました。聖なる者たちの心があなたのお陰で元気づけられたからです」(フィレモン 7)。ボランティアの皆さんによってどれだけの心が慰められたでしょう。どれだけの手が人を支え、どれだけの涙が乾かされ、どれだけの愛が謙遜で私心のない隠れた奉仕に向けられたでしょう。この称賛すべき奉仕は、信仰を語ると共に、助けを必要とする者に寄添う御父のいつくしみを表しています。

イエスに従うこと、それは真剣であると同時に喜びに満ちた努力です。それは最も貧しい人々、見捨てられた人々の中に神なる師の姿を認め、これらの人々に奉仕するために、ラディカルな姿勢と勇気を必要とします。それゆえ、ボランティアの人々は、イエスの愛のために、貧しく助けを必要とする人たちに奉仕し、いかなる感謝も慰労も期待せず、むしろ、真の愛を見出したがゆえに、これらすべてを捨て去るのです。わたしたちはこのように言うことができます。「主がわたしのところにやって来て、わたしを助けるために身をかがめてくださったように、わたしもまた主のもとへ行き、信仰を失った人、神は存在しないかのように生きる人、価値や理想を見出せない若者、危機に面した家族、病者、受刑者、難民、移民、心身において弱り無防備な人々、自らを見捨てた未成年、孤立した高齢者たちの上に身をかがめよう。立ち直るための助けを求める手が伸ばされているところにはどこでも、わたしたちと教会がいて、彼らを支え、希望を与えなくてはならない」と。そして、わたしたちは自分が苦しんでいた時に差し出された主の御手を生き生きと思い出しながら、その奉仕をするのです。

マザー・テレサは、その全生涯において、生まれてこなかった命、また見捨てられ、疎外された命、これらすべての人間の命を受け入れ、守ることを通して、すべての人に奉仕し、神のいつくしみを寛大に分け与える人となりました。「生まれてくる前の赤ちゃんは、最も弱く、小さく、あわれな存在です」と常に強調しつつ、命の擁護に力を尽くしました。衰弱した人、道端で死にかけている人の中に、神が彼らに授けられた尊厳を認め、これらの人を助けるために身をかがめました。マザー・テレサは地上の権力者たちに、貧困を生み出すという犯罪の罪は彼ら自身にあると、その意見を述べました。いつくしみはマザー・テレサにとって、彼女のすべての行いに味をつける「塩」であり、自分たちの貧しさと苦しみを泣くための涙も枯れはてた人たちの心の闇を照らす「光」でした。

マザー・テレサの都市の辺境、そして人々の心の辺境におけるミッションは、最も貧しい人たちへの神の寄添いを、今も雄弁に証ししています。今日、マザー・テレサの女性として、修道者としての象徴的な生き方を、ボランティアの世界全体に託します。マザー・テレサは皆さんにとって聖性のモデルです。おそらく、わたしたちはマザー・テレサを聖テレサと呼ぶことに少し慣れないかもしれません。親しみのある、優しい、豊かなその霊性ゆえに、わたしたちは自然な形でマザー・テレサと呼び続けることでしょう。疲れを知らないいつくしみの奉仕者、マザー・テレサは、わたしたちの行いの唯一の規範が、あらゆるイデオロギーや制約から自由な、言語や、文化、民族、宗教の違いを超えた、無償の愛であることを教えてくれます。マザー・テレサはよくこのように言っていました。「わたしは彼らの言葉を話すことはできないかもしれませんが、微笑むことはできます」と。心の中にマザー・テレサの微笑を保ち、その微笑をわたしたちの人生の中で出会う人々、特に苦しむ人たちに贈りましょう。こうして、理解や優しさを求めている人々、落胆した人々に、喜びと希望の世界を開きましょう。