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バチカンで列聖式:7人の新聖人の生涯(2)


10月21日、教皇ベネディクト16世は、バチカンでミサを捧げられ、この中で7人の福者を新たに聖人の列に加えられた。

「信仰年」に入って、聖人として宣言された7人を、教皇は信仰と福音宣教の模範として示され、その列聖の大きな喜びを皆と分かち合われた。

新聖人7名の人となりを紹介する。

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4)聖カルメン・サリェス・イ・バランゲラス修道女(1848スペイン-1911)

無原罪の御宿り教育宣教修道会の創立者、バランゲラス修道女は、1848年、スペインのバルセロナに生まれた。両親からしっかりとしたキリスト教的教育を受けた彼女は、家庭の中で 祈りと神のみ旨を絶えず捜し求めることを学び取り、同時に聖母マリアへの篤い信心を身につけた。

内的な試練の最中も多くの時間を祈りに捧げ、何か一つのことを決定する前には、常に指導者たちの助言を求めていた。自分自身の内に感じていた召命を実現に移すまでには大いに苦しまなければならなかった。

1869年、聖体礼拝信心会に入会。聖母マリアの無原罪の御宿りの神秘の光の下で、教育こそ諸悪の予防であると理解した。

1870年、お告げのドミニコ修道女会に入会し、そこで22年間、子供たちや青少年、女性労働者たちの教育に専念した。

1892年、多くの祈りと、助言を求めた後、数名の修道女らとドミニコ会を去った。

1892年10月、カルメンとその仲間たちはブルゴスに到着した。ブルゴスのマニュエル・ゴメス・サラザル大司教の中に大いなる保護を見出し、その下で同年12月には教区立修道会を創立。こうして最初の「無原罪の御宿り学校」が誕生。同校はスペイン国内だけではなく、ブラジルやイタリアにもいち早く発展していった。

救い主キリストと無原罪の聖母への大きな愛に支えられたマードレ・カルメンは、「教育を必要とする青少年と、伝達すべき価値がある限り、困難は何の問題でもありません」といつも話していた。1911年、マドリッドで死去した。

同修道会は、世界16カ国に広がり「前進、常に前進、神がすべてを取り計らってくださいます」という彼女のメッセージを伝え続けている。

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5)聖マリアンヌ・コープ修道女(1838ドイツ-1918ハワイ・モロカイ島)

聖マリアンヌ・コープ(バルバラ・コープ)は、1838年、ドイツのヘッペンハイムに生まれ、家族と共に米国に移住した。信仰心豊かに育ち、貧しい人々に寄せる関心、他者の尊重、自己犠牲の精神に恵まれた。

1862年、シラキュースのフランシスコ修道女会に入会、修道名をマリアンヌとした。教師として移民の子らに教える傍ら、2つの病院の設立・運営に携わった。

1877年、管区長に選出された彼女は、ハワイのハンセン病患者のために看護婦を送ってほしいというハワイ王の要請に応えて、当時すでに50もの修道会が断っていたこのミッションに修道女たちを派遣することにした。

マザー・マリアンヌは、ミッション参加を望んだ修道女たちに付き添い、ハワイのモロカイ島まで同行した。最初は修道女たちが働く環境を整えるための支援を考えていたが、現地のハンセン病患者たちの置かれた厳しい状況に深く心を打たれたマリアンヌは、自らそこに残る決意をした。

最初の5年はホノルルのハンセン病院、そして後の30年をモロカイ島で患者たちへの奉仕に尽くし、先に活動していた聖ダミアン・デ・ブーステル神父の事業に協力し、ダミアン神父死後は、その仕事を受け継いだ。

こうして、厳しい環境の中で、疎外された人々に尊厳を取り戻させるために懸命に働いたマザー・マリアンヌは米国に戻ることなく、1918年、80歳でモロカイ島で亡くなった。

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6)聖カタリ・カテリーナ・テカクィタ(1656ニューヨーク-1680カナダ)

聖カタリ・テカクィタは、1656年、現在の米国ニューヨーク州に生まれた。

孤児となったカタリは、叔父のもとで育てられた。彼はキリスト教を快く思っていなかったが、彼女はカトリック教徒であった亡き母の影響で、キリスト教徒になりたいと望んでいた。

1667年、3人のイエズス会の宣教師に出会ったカタリは、ますますキリスト者になりたいとの望みを大きくした。宣教師たちの長上だったド・ランベルビッル神父は、彼女の真剣さを認め、カテリーナ(カタリ)という洗礼名の下に、その年の復活祭に洗礼を授けた。

それ以来彼女の熱心はますます大きくなり絶えず十字架上のキリストとの親密な交わりの中に生きるようになった。

カテリーナのイエスに対する愛は強く、イエスとの完全な一致を生きることを切望。将来イロキ族の酋長となるべき若者との結婚を断わった。

カタリは多くの脅迫や困難に出会うこととなったが、それにも屈せず、1677年、故郷から遠く離れた、キリスト教共同体のある現在のカナダの村に移住を決意した。カタリに聖徳を感じた土地のキリスト教徒たちから、彼女は喜んで受け入れられ、当時としては異例なこととして、1677年のクリスマスに早くも初聖体を受ける許可を得た。

その後3年間、カタリはこの共同体の中で生活し、特に貧しく、苦しむ人々に愛徳を施し、素晴らしいキリスト教的な徳の模範を示した。

カタリのイエスへの愛における完全な純潔生活に打たれた霊的指導者ショルノック神父は、彼女に生涯貞潔の誓願を立てることを許した。これは北アメリカにおける最初のこの種の誓願だったと言われている。

1680年、熱病に倒れたカタリは、「イエスよ、御身を愛します」という最後の言葉を遺し、天の御父のもとに帰って行った。

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7)聖アンナ・シェーファー(1882ドイツ-1925)

聖アンア・シェーファーの生涯に、神がそのご計画を通して、人間をどのように聖化されるかを見ることができる。

アンナ・シェーファーは、1882年、ドイツ・バイエルン地方の貧しい大工の家庭に、8人兄弟の3番目として生まれた。

アンナは幼い頃から、宣教女として遠い国へキリストの福音を告げに行くことを夢見ていた。当時、修道会に入会するためには、一種の準備金を必要とした。しかし、貧しさゆえに、それに当てる額を稼ぐため、アンナは裕福な家庭に奉公に出ることになった。それは彼女が宣教女となるための、夢の実現への一歩だった。

だが一年後、父親が亡くなり、残された兄弟姉妹を養うために、彼女は実家に戻らざるを得なくなった。故郷でも、女中として、地元の資産家の家庭に働きに行った。

こうして数年が経ち、小さな兄弟たちも成長したことで彼女の助けを必要としなくなり、いよいよ宣教女となる夢をかなえる日も近いかと思われた矢先、洗濯用の熱湯を浴びるという大事故で大やけどを負った。両足が麻痺し、生涯、ベッドに釘付けの生活を余儀なくされた。

彼女は大きな信仰を持っていたが、初めはこの災難をなかなか素直に受け入れることができなかった。しかし、彼女は少しずつこの試練に打ち勝ち、苦しみを神への捧げ物として、諦めからではなく、意志の力で、すべてを穏やかな気持ちで捧げることができるようになった。そして、病室で苦しみに囲まれながらも、主の宣教女としての召命をまっとうするために、すべてを神に奉献するのだった。

彼女自身が語っているように、しばしば主ご自身や、聖フランシスコが彼女に出現し、語りかけた。彼女はベッドの上で、彼女のもとにやってくる人々に勧告や慰めを惜しみなく与え、多くの手紙や励ましの言葉をもって自分のすべてを人々への奉仕のために捧げ尽くした。

1925年、ベッドから落ちた彼女は、その後声を失い、「イエスよ、わたしはあなたの中に生きます」とささやきながら、息を引き取った。

死後、彼女の聖性の噂はすぐにバイエルン地方に広まり、初め共同墓地に葬られた彼女の遺体は故郷の小教区聖堂に移された。1999年、教皇ヨハネ・パウロ2世によって福者の列に加えられた。