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コンフォルティ司教・グアネッラ神父・ボニファチア修道女の列聖式、バチカンで


カトリック教会の世界宣教の日が記念された23日、教皇ベネディクト16世はバチカンの聖ペトロ広場でミサを捧げられ、この中で3人の福者を新たに聖人として宣言された。

この日、列聖されたのは、聖ザベリオ宣教会創立者のグイド・マリア・コンフォルティ司教、カリタスのしもべ修道会および御摂理の聖マリア修道女会創立者のルイジ・グアネッラ神父、そして、聖ヨゼフのしもべ修道女会創立者、ボニファチア・ロドリゲス・デ・カストロ修道女。いずれも19世紀から20世紀前半の社会に、それぞれの生き方・活動を通して、福音のメッセージを強く伝えた。

教皇は、この式のために新聖人のゆかりの地から訪れた巡礼者や教区、修道会関係者らと大きな喜びを共にされ、神と隣人への愛のために生きるという、福音の精神をそのままに証しした3人の生き方を、キリスト者の模範として示された。

この教皇ミサによって列聖された3人の略歴は以下のとおり。

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聖グイド・マリア・コンフォルティ(司教・聖ザベリオ宣教会創立者、イタリア1865-1931)

グイド・マリア・コンフォルティ司教は、1865年、北イタリア・パルマに生まれた。11歳で神学校に入り、困難な健康問題を乗り越えながら、1888年、23歳で司祭に叙階された。

28歳の若さで、パルマ教区の司教代理となった。海外宣教への召命を強く感じていたが、健康のためにそれが許されなかった彼は、1895年、聖フランシスコ・ザビエル外国宣教会(聖ザベリオ宣教会)を創立。1889年には、最初の二人の宣教師を中国に派遣し、その後も宣教師の数を増やしていった。

1902年、教皇レオ13世によって、37歳で、ラヴェンナ大司教区の大司教となった。2年間にわたり教区の司牧に献身的にたずさわったが、健康がもたず、教皇ピオ10世に現職からの引退を申し出て、受け入れられた。

健康が持ち直した後、1907年、コンフォルティ師は、パルマの司教に任命された。ここで彼は24年以上に渡り、善き司牧者として教区の活性化を進めた。宗教教育の大切さを強く認識し、各小教区に教理の学校と共に、カテキスタ養成専門のコースを設け、イタリアで初めて「カテキズム週間」を記念した。在任中、300以上ある小教区をくまなく何度も訪問し、教区シノドスを2回開催、カトリック系の様々な組織を設立、推進した。

教区の司牧と平行して、コンフォルティ司教は自身の創立した宣教会の活動を発展させた。1928年には、彼自身が中国に赴き、宣教地の実際をその目で見、宣教師や信者たちとの出会いを持つことができた。

コンフォルティ司教は、1931年11月5日に帰天。その葬儀には大勢の市民が集い、司教への深い尊敬と親愛を示した。

コンフォルティ司教の創立した聖ザベリオ宣教会はその後も発展し、日本をはじめ、世界19カ国で活動している。

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聖ルイジ・グアネッラ(司祭、カリタスのしもべ修道会・御摂理の聖マリア修道女会創立者、イタリア1842-1915)

ルイジ・グアネッラ神父は、1842年、北イタリア・コモの信仰の篤い家庭に生まれた。

コモの神学校に入り、1866年に司祭に叙階され、翌年、サヴォーニョの主任司祭となった。

グアネッラ神父はこの頃、トリノで活躍していた聖ジョヴァンニ・ボスコや、ジュセッペ・コットレンゴ神父が遺した事業から大きな影響を受けた。1875年には、ドン・ボスコのもとに赴き、その理念と活動をある期間、実体験している。

コモの司教の命によって教区に再び戻ったグアネッラ神父は、貧しい子どもたちの学校を開くことを夢見ていたが、彼が開いた最初の学校は地元有力者たちの反対で閉じられてしまった。

しかし、1881年、新しく主任司祭として赴任したピアネッロ・ラリオで、貧しい人々に奉仕する若い女性たちのグループを知り、この出会いが「御摂理の聖マリア修道女会」の創立へとつながっていった。

グアネッラ神父はコモを中心に慈善事業を広げていった。やがて彼を助ける司祭たちのグループが形成され、それが「カリタスのしもべ修道会」へと発展していった。

グアネッラ神父が手がけた男子と女子の2つの修道会は、イタリア各地やスイスに広がっていった。

1904年、教皇聖ピオ10世に謁見したグアネッラ神父は、ローマに臨終の聖ヨセフに捧げた聖堂を建てる仕事を委ねられた。彼はこの小教区と共に、臨終の人々のために祈ることを目的とした「臨終の聖ヨセフ信心会」を作り、ピオ10世はその最初の会員となった。

グアネッラ神父の宣教への熱意は、北アメリカのイタリア移民にも向けられ、1912年、70歳で、アメリカの土を踏んだ。

晩年、グアネッラ神父はローマに留まり、アブルッツォ地震の被災者のために働くなど、最後まで人々のために尽くしながら、1915年に帰天した。

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聖ボニファチア・ロドリゲス・デ・カストロ(修道女・聖ヨゼフのしもべ修道女会創立者、スペイン1837-1905)

聖ボニファチア修道女は、1837年、スペイン・サラマンカの仕立職人の長女として生まれた。

早くから飾り紐作りの技術を習得し、15歳で父を失なった後、その職で家族の生計を立てた。

経済的困難を乗り越え、飾り紐の製作を主体とした小さな作業所を開業した彼女は、当時の悪い風習や危険に染まりたくないという若い女性たちのために、作業所を解放。こうして、女性労働者たちの祈りや霊的集いの拠点ができていった。

1870年、イエズス会士フランシスコ・ブティンヤ・イオスピタル神父と共に、女性労働者を信仰を通して守るため、「聖ヨセフのしもべ会」を創立。ボニファチアは、自分の母と、5人の女性と共にサラマンカで共同生活を始めた。

会員たちは貧しい女性たちに仕事を提供し、これらの女性たちを社会の危険から守った。修道女たちは、修道服をつけず、皆と共に作業所で働き、収入を共有していた。

しかし、斬新なスタイルの修道生活は、サラマンカ教区の司教の理解を得られなかった。

創立から3ヶ月でフランシスコ神父はサラマンカを離れ、翌年にはサラマンカ司教もバルセロナ教区に移った。ボニファチアは修道会の長として、一人で敵対的な環境の中に取り残された。

この後も、新しい司教や管理責任者の無理解によって、会が分裂したり、会の目的の変更を迫られたり、彼女の留守中に長上の職を解かれたりと、大きな試練が続いた。

ボニファチアは新しい長上のもと、従順に修道生活を続けたが、讒言や拒絶の中、ついには創立者としての肩書きも剥奪されることになった。しかし、彼女は沈黙と、謙遜と、赦しに生きた。

1883年、サラマンカ司教の勧めで、ボニファチアはザモラに新しい共同体を作り、ここで彼女はようやく当初の会の目的を実現することができた。身寄りのない若い女性や、仕事のない女性に技術をつけさせ、キリスト者として尊厳ある生活を準備させることに全力を尽くし、寛大に福音と人々のために奉仕した。

ボニファチアは1905年、ザモラで帰天した。1907年、ザモラの共同体は聖ヨセフのしもべ会とようやく一つとなり、1941年には、ボニファチアが創立者として再び認められた。