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教皇、セラ・サン・ブルーノの修道院で夕べの祈り「沈黙と精神性を忘れた現代世界のオアシスに」


9日、南イタリア・カラブリア州を司牧訪問された教皇ベネディクト16世は、夕方、ヴィーボ・ヴァレンティア県のセラ・サン・ブルーノで、市民や修道者との出会いを持たれた。

セラ・サン・ブルーノは、標高およそ800メートル、豊かな森に囲まれた静かな町。カルトジオ会創立者、ケルンの聖ブルーノ(1030頃-1101、その生涯については後記参照)が創始した大修道院の外に、次第に形成されていった歴史を持つ。

教皇はセラ・サン・ブルーノの市民への挨拶で、聖ブルーノの創立した共同体と歩んできたこの町の特有の精神性に触れられた。

修道院が世界において果たしてきた貴重でかけがえのない機能を思いおこしながら、教皇は特に、中世で地域の土地改良に貢献していた修道院が、現在では世俗主義や経済中心主義が蔓延し、精神性を失った社会環境の改善のためのオアシスとしての役割を負っていると話された。

神を中心に置き、兄弟愛を実践する社会のモデルである修道院は、今日の世界にも必要とされていると教皇は述べ、この土地に住む者の特権、また責任として、聖ブルーノ修道院の偉大な精神遺産を大切に、それを生活に反映した生き方をするよう人々に希望された。

続いて、教皇は町から森を隔てたサン・ブルーノ大修道院へと向かった。

修道院長はじめ、ここで祈りの生活を送る15人のカルトジオ会員らに迎えられた教皇は、付属の聖堂で、修道者らと共に夕べの祈りをとり行われた。左右の祈祷席に並んだ修道者たちが唱え、歌う晩課が厳かに聖堂内に響いた。

教皇は、カルトジオ会がこれからも創立者聖ブルーノの精神を引き継ぎ、沈黙と孤独の隠修生活を通して、沈黙と精神性を忘れた現代の世界に福音を証しし、教会の心臓として観想の純粋さと神の愛を隅々に送り出し続けることを願われた。

カラブリア訪問を終えた教皇は、同日夜、バチカンに戻られた。

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参考:ケルンの聖ブルーノ(1030頃-1101)

聖ブルーノは、1030年頃、ドイツのケルンに生まれた。若くしてフランスに渡り、ランス大聖堂付属の神学校で学んだ。ブルーノはランス大司教ジェルヴァジオより教区の教育責任者としての役務を託されると共に、神学校で教鞭をとった。彼は多くの優秀な弟子を送り出したが、その中には後に教皇ウルバヌス2世となるシャティヨンのユードもいた。

ジェルヴァジオ大司教の死後、ブルーノは不正を行って座に着いた新しい司教を勇気をもって糾弾したことで同教区を追われた。

この試練の日々、ブルーノに修道生活への熱い思いが育っていった。不正が明らかになった前司教が解任された後、人々はブルーノをランスの大司教に迎えようとしたが、彼はそれを断り、仲間と召命を見つめる旅に出た。シトー会創立者の一人、モレームのロベールを訪ね、教えを受けた後、1084年、グルノーブル司教、シャトーヌフのユーグから与えられたシャルトルーズの山中で隠修生活を開始した。これがカルトジオ会のはじまりである。ブルーノと同志が建てた祈祷所と隠遁のための簡素な小屋は、後にグランド・シャルトルーズと呼ばれる大きな修道院に発展していった。

ブルーノは沈黙と祈りと苦行の厳しい修道生活に励み、その姿は多くの人々を強く惹き付けていった。

シャルトルーズの隠修生活から6年、ブルーノのかつての弟子であったウルバヌス2世は、彼をローマに呼び、顧問とした。修道生活に打ち込みたいブルーノにとっては辛いことであったが、従順にローマに赴き、多忙な日々を送った。

教皇はブルーノをレッジョ・カラブリアの司教にしようとしたが、ブルーノはこれを固辞、修道生活に戻りたいとの熱意を持ち続け、ついには教皇の許しを得て、カラブリアの森林地帯で再び隠修生活を始めた。これがセラ・サン・ブルーノの修道院の発祥となった。

聖ブルーノはシャルトルーズの兄弟たちに手紙で指導をおくりながら、自らもますます厳格な修道生活のもと、祈りと観想に没頭し、1101年、カラブリアの地で帰天した。