2010-11-18 16:13:30

コルニヨンの聖ジュリアーナを考察、教皇一般謁見、パキスタンのキリスト教徒のためにアピール


教皇ベネディクト16世は、バチカンで17日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

この席で教皇は、パキスタンのキリスト教徒たちの置かれた困難な状況に言及。同国においてキリスト教徒たちがしばしば暴力や差別の犠牲者となっている現実を憂慮された。

中でも冒涜罪で死刑を宣告されたキリスト教徒の女性とその家族に精神的一致を示された教皇は、女性の早期解放を祈ると共に、人間の尊厳と基本的権利がすべての人に保証されるよう希望された。

謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、教皇は中世のキリスト教文化の考察を続けながら、この時代の教会に影響を与えた女性として、コルニヨンの聖ジュリアーナを紹介。その聖性に満ちた生涯と、典礼暦で最も重要な祭日の一つ「コルプス・ドミニ(キリストの聖体)」の祭日の制定に貢献した深い信仰を振り返られた。

コルニヨンの聖ジュリアーナは、1191年から1192年の間にベルギーのリエージュで生まれた。それゆえ、リエージュの聖ジュリアーナとも呼ばれている。当時のリエージュは聖体への信心が特別に篤いところであった。

5歳で孤児となり、妹と共にモン・コルニヨンのアウグスチノ会女子修道院に預けられた。ここでジュリアーナは深い教養を身につけ、教父たちの作品をラテン語で読んだ。また、早くから観想的傾向を示し、聖体やみことばの中にイエスの現存の意味を見出していた。

16歳から聖体礼拝の際にしばしば幻視を体験。この中で人々が聖体を礼拝することで信仰をより深めるための祭日の必要を、啓示として受けた。後、ジュリアーナは修院長となってからも、長い間この啓示を胸に秘めていたが、やがて霊的友人たちにこれを打ち明け、聖体賛美の重要性を理解する賛同者は増えていった。

やがて、リエージュの司教がジュリアーナたちの提案を初めて受け入れ、同教区で「コルプス・ドミニ」の大祝日を祝うようになると、他の司教たちも各自の教区にそれを取り入れるようになった。

しかし、これをめぐって、一部の教会関係者や修道院の長上との対立を避けたジュリアーナは、自らモン・コルニヨンの修道院を出て、1248年から1258年までシトー会の修道院に身を寄せ、謙虚で平和的な生活のうちに、聖体への信心を広め続けた。聖ジュリアーナは、1258年、ベルギーのフォッス・ラ・ヴィルで聖体のイエスの愛を観想しながら帰天した。

かつてリエージュ滞在中に聖ジュリアーナと交流があった教皇ウルバヌス4世は、1264年、聖霊降臨後の木曜日を「コルプス・ドミニ」の祭日とし、全教会で祝うべきものと定めた。そして教皇自らオルビエートで同祭日の荘厳ミサを捧げたほか、当時の偉大な神学者、聖トマス・アクイナスにこの祭日のための典礼文を起草させた。神学と詩が融合したこの美しい典礼文は現在も使用されている。

教皇は、今日の教会に見られる聖体への崇敬を「聖体の春」と表現され、若い人々をはじめ、多くの人々が聖体訪問や聖体礼拝を熱心に行っていることを喜ばれた。

聖ジュリアーナ・コルニヨンに倣い、聖体におけるイエスの現存に対する信仰を新たにするよう呼びかけられた教皇は、日曜日のミサにおいて聖体のイエスに出会うことはもとより、神の愛の賜物を知り、イエスの受難と十字架、そして復活に出会う機会としての聖体訪問と聖体礼拝を信者たちに奨励された。
 







All the contents on this site are copyrighted ©.