2018-04-20 12:00:00

教皇、南伊アレッサーノとモルフェッタへ、トニーノ・ベッロ司教帰天25周年


教皇フランシスコは、4月20日、トニーノ・ベッロ司教の帰天から25年を記念し、南イタリアのアレッサーノとモルフェッタを司牧訪問された。

神のしもべ・トニーノ(アントニオ)・ベッロ司教は、1935年12月8日にプーリア州レッチェ県のアレッサーノに生まれた。1957年、司祭叙階。ウジェントの神学校で1958年から副学長、1976年から学長、小教区主任司祭、カトリック・アクションやカリタスの指導に携わった。

1982年8月、モルフェッタ=ジョヴィナッツォ=テルリッツィ教区の司教に、同年9月にはルーヴォ教区の司教にも任命された。1986年、ベッロ司教が教区長を兼任していたこれらの教区は併合され、モルフェッタ=ルーヴォ=ジョヴィナッツォ=テルリッツィ教区が誕生した。

「ドン・トニーノ(トニーノ神父)」として、親しみと愛情をもって若者たちをはじめ、すべての人々の近くに留まったベッロ司教は、常に司教館の扉を開き、いつ、誰でも迎え入れ、対話する姿勢で知られた。

「前掛けをした教会」をモットーに、謙遜で、奉仕のために行動する教会を目指した。特に貧しい人々や疎外された人々に関心を注ぎ、教区内のすべての小教区に支援組織「カリタス」を発足させ、薬物依存者のための共同体を創立した。

1985年、イタリア司教協議会より、平和のためのカトリック運動「パックス・クリスティ・イタリア」の議長に任命され、湾岸戦争やボスニア・ヘルツェゴビナ紛争に強い反対を呼びかけた。

闘病のかたわら、教区の司牧に情熱的に奉仕し、福音精神のもとに、貧しい人々や平和のために尽力したトニーノ・ベッロ司教は、1993年4月20日、モルフェッタで、58歳で帰天した。

2007年より、ベッロ司教の列福調査が始まっている。

トニーノ・ベッロ司教の帰天から25年を迎えた、4月20日、教皇は同司教を偲び、その足跡をたどるこの訪問で、まず、ベッロ司教の故郷であり、墓があるアレッサーノに向かった。

教皇は、ウジェント=サンタ・マリア・ディ・レウカ教区の司教に伴われ、ベッロ司教の眠る墓地へと赴かれた。

ベッロ司教の墓前に献花された教皇は、沈黙のうちに長い祈りを捧げられた。

続いて、教皇は墓地の前の広場に集ったおよそ2万人の信者らとお会いになった。

挨拶の中で教皇は、「この地に蒔かれた種」として生きた「ドン・トニーノ」を思い起こされた。

「トニーノ神父にとって、貧しい人々を理解することは、真の豊かさでした。それは間違ってはいませんでした。なぜなら貧しい人々は本当に教会の宝であるからです」と教皇は述べ、「困窮した人たちに心をとめる教会は、常に神のチャンネルに合わせられ、福音の周波とずれることがありません」と話された。

トニーノ神父は、貧しい人々への寄り添いを単なる理論とせず、イエスのように実際に寄り添うことの大切さを教えてくれたと語りながら、教皇は、イエスに倣い、一致するために、自らを投げ打つまでに達した同神父の福音的情熱を回想。

同神父が苦しんだのは、人々の願い事ではなく、人々の無関心、彼が恐れていたのはお金の不足ではなく、人々の仕事と尊厳をめぐる不安であったと話された。

同神父は地域の活動を通して、平和の種を世界に蒔くことを望み、暴力と戦争を食い止めるためには、貧しい人々を世話し、正義を行なうことであると考えていた。実際、戦争は貧しさを生み、貧しさは戦争を生む、平和は家や道端で交わりを生み出しながら、少しずつ手で作り上げていくもの、と教皇は説かれた。

そして、「フィニス・テッレ(地の果てる場所)」と呼ばれるこのイタリア南端の素晴らしい土地を、ドン・トニーノは「テッラ・フィネストラ(窓の開く場所)」と呼び、この土地が南イタリアから南半球へと開く、平和を伝える「希望の窓」となることを望んだ、と語られた。

「神は皆さんの故郷に、贈り物として、一人の現代の預言者を立てられました。そして、神はこの贈り物が受け入れられ、その預言が実現することを願っておられます」と述べた教皇は、トニーノ神父のキリスト者としての若く熱い情熱に触れ、妥協なく福音を生きるようにとのその強い招きのもとに、彼に倣っていくよう、信者らを励まされた。








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