2018-04-11 15:55:00

「洗礼を通してキリストに浸され、新しい人間となる」教皇、一般謁見で


教皇フランシスコは、バチカンで4月11日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、教皇は復活祭後にふさわしいテーマとして、「洗礼の秘跡」について講話を行われた。

教皇は「復活の主日」から「聖霊降臨の主日」まで、50日間続く「復活節」は、キリスト御自身から由来するキリスト者の生活について考えるのにまたとない時期と指摘。

ここでキリスト者としての自覚を新たにするために、キリスト教生活への入口となる秘跡、「洗礼の秘跡」について考えたいと述べられた。

「キリストの復活は、その豊かな知らせをもって、洗礼を通してわたしたちに及び、わたしたちをキリストご自身に似た者として変容する」、「洗礼を受けた者はキリストに属する者であり、キリストこそ、彼らの命の主である」と教皇は話した。

そして、洗礼は「キリスト者の生活全体の基礎」(『カトリック教会のカテキズム』1213)であり、それは最初の秘跡、わたしたちの中に主キリストがお住まいになり、キリストの神秘にわたしたちを浸すことを可能とするための扉であると説明された。

「洗礼を行なう」というギリシャ語(バブティゼイン)は、「沈める」「浸す」という意味である(同1214)。

水に人を浸す行為は、ある状態から別の状態への推移や、新たな始まりのための清めなどを表すものとして、様々な宗教の典礼にも見られると教皇は言及しつつ、キリスト者にとって、洗礼で体を水に浸すことは、罪からの赦しを得て、神の光によって再び輝くために、キリストの中に魂を沈めることであると話された。

教皇は、聖霊の力において、洗礼はわたしたちを主の死と復活の中に沈め、罪に支配された古い人間を、イエスにおいて再び創造された、新しい人間として生まれさせると強調。

「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」(マタイ28,19)という、復活されたイエスが弟子たちに向けた派遣の言葉を思い起こしつつ、キリストを信じる者は、洗礼を通して三位一体の命の中に浸されると語られた。

教皇は、洗礼を通して神のもとに新たに生まれることについて、「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」(ヨハネ3,5-6)と、イエスがニコデモに説明した言葉を引用。

また、人を新たに造りかえる洗礼について、「神は、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです」(テトス3,5)という、使徒聖パウロの言葉を示された。

さらに、洗礼とは、新たな命において歩むために、再び生まれたことをはっきりと表すしるしであると述べた教皇は、「あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活されたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(ローマ 6,3-4)という、聖パウロの言葉を観想された。

教皇は、人は洗礼によってキリストに浸されることで、「キリストの肢体となり、教会の一員となって、その使命に参与する者となる」(『カトリック教会のカテキズム』1213)ことを、信者たちに思い出させた。

そして、洗礼盤からほとばしる生命力、キリストとの繋がりを、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(ヨハネ15,5)というイエスの言葉の中に見つめられた。

教皇は洗礼の力について、洗礼は、キリストがわたしたちの中に生きると共に、わたしたちがキリストに一致して生き、それぞれが置かれた場所・能力をもって、世界を変容させるために、教会の中で協力することを可能にしてくれると述べた。

ただ一度受けた洗礼は、わたしたちの全人生を照らし、天上のエルサレムに至るまで、わたしたちの歩みを導いてくれると、教皇はキリスト者にとっての洗礼の秘跡の重要性を改めて強調された。

 

 








All the contents on this site are copyrighted ©.