2018-04-09 15:00:00

教皇、「聖性」をテーマに、使徒的勧告発表


教皇フランシスコは、「聖性」をテーマにした使徒的勧告を発表された。

使徒的勧告「ガウデーテ・エト・エグズルターテ、現代世界における聖性への招き」は、そのメインタイトルをマタイ福音書の「喜びなさい、大いに喜びなさい」(5,12)からとっている。

序文と5章の本文、全177節からなるこの文書で、すべての人が聖性に招かれていることを強調する教皇は、イエスの山上の説教の「真福八端」を聖性への道として示し、現代社会において聖性を生きるための秘訣を述べている。

教皇は序文で、この使徒的勧告の目的を次のように記している。

「『喜びなさい、大いに喜びなさい』(マタイ5,12)、イエスはご自分のために迫害され、侮辱される人々にこのように言われました。主はすべてを求められますが、主がお与えになるのは、真のいのち、幸福であり、わたしたちはそのために創られているのです。主はわたしたちが聖なる者であることを望まれ、わたしたちが月並みで、当たり障りのない、中身を伴わないような生き方で満足することを願っておられません。実際、聖書の最初の方にすでに、様々な形で、聖性への招きが見られます。主はアブラハムにこう言われました。『あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい』(創世記17,1)。」

「ここに、この重要なテーマを豊かにするであろう、聖性についての多くの定義や区別、聖化の方法の分析を伴う、聖性をめぐる大論文を期待してはなりません。わたしの慎ましい目的は、今一度、聖性への招きを呼びかけると共に、危険や、挑戦、チャンスをも含め、その招きを現代の状況において具体化することです。なぜなら、主はわたしたち一人ひとりを『ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと』(エフェソ1,4)選ばれたからです。」

続く本文、全5章は次のように展開される。

第一章「聖性への招き」

第二章「聖性の狡猾な敵」

第三章「師の光のもとに」

第四章「現代世界における聖性のいくつかの特徴」

第五章「闘い、用心、識別」

教皇は、いかに聖性に至るかを示す前に、第一章で「一人ひとりにそれぞれの完徳の道がある」と述べ、「到達できないような聖性のモデル」を観想したり、「自分が考えてもいなかった何か」を模倣して、失意することは無意味であると語っている。

「すでに神の御許にいる聖人たち」は、「わたしたちを勇気付け、わたしたちに寄り添ってくれる」と、教皇は明言。

その一方で、神がわたしたちが成長するようにと招いておられる聖性は、毎日の「小さな行い」の中にあり、多くの場合「わたしたちのそばで暮らしている人々」によって証しされているものであると指摘している。

第二章では、教皇は聖性の敵として、これまでご自身が様々な機会に言及し、最近、教皇庁教理省の書簡「プラクイト・デオ」においても取り上げられた、「ネオ・ペラギウス主義」、「ネオ・グノーシス主義」的傾向を挙げている。

第三章で、教皇は聖性とは何かを示す上で、イエスの山上の垂訓の「真福八端」を中心に据えられた。そして、「心の貧しい人々は、幸いである」から、「義のために迫害される人々は、幸いである」まで、「真福八端」の一つひとつを取り上げながら、聖なる者とはどういう人であるのかを具体的に考察している。

教皇はこの中でも、特に「憐れみ深い人々は、幸いである」に、マタイ福音書25章の「最後の審判」に記される、キリスト者の態度の「偉大な基準」を見出している。

教皇は、「聖なる者であるとは、『恍惚』らしき状態の中で目を輝かせていることではなく」、最も貧しく小さな人々への愛を通して神を生きることと述べている。

福音を変質させるイデオロギーとして、教皇は、神との関係を育まずにキリスト教を一種のNGO化してしまう思想、また一方で、社会活動を表面的・世俗的なもの、共産的・ポピュリズム的なものであるかのように警戒する考えを指摘。

あらゆるカテゴリーの弱く無防備な人々への保護は、確固とした情熱的なものであるべきと述べ、移民の受け入れについても、すべての寄留者の中にはキリストがおられることを思い出させている。

第四章では、教皇は聖性の道につながる生き方を理解する上で不可欠な要素として、「忍耐、柔和さ」「喜び、ユーモアのセンス」「大胆さと熱意」を挙げると共に、共同体における歩みや、よく祈ることの大切さにも触れている。

教皇は最終章で、キリスト者を生気の無い、凡庸な者にしてしまう、世俗的な精神に対する、永久の闘いについて述べ、それに対する用心、キリスト者の使命のために必要なことを見分ける識別力について語っている。








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