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バチカン放送局

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教皇フランシスコ \ 宗教行事

2018年度:復活の聖なる徹夜祭、教皇「沈黙から抜け出し、命の知らせに参与する」

教皇フランシスコによる、復活の聖なる徹夜祭、バチカン・聖ペトロ大聖堂 - AP

01/04/2018 09:00

教皇フランシスコは、バチカンで、2018年度の「復活の聖なる徹夜祭」をとり行われた。

復活祭前日「聖土曜日」から「復活の主日」の夜明けまでの間に、主キリストの復活を待ちながら祈り、その過ぎ越しを祝う「復活の聖なる徹夜祭」が行なわれる。

「すべての聖なる徹夜祭の母」と呼ばれるこの荘厳な儀式は、「光の祭儀」「ことばの典礼」「洗礼式」「感謝の典礼」の4部から構成される。

3月31日、聖土曜日の夜、聖ペトロ大聖堂で祝われた復活徹夜祭は、キリストの復活を象徴する「光の祭儀」をもって幕を開けた。

教皇は大聖堂の扉の外で、火と復活の大ろうそくを祝別。助祭の掲げる大ろうそくと共に、明かりを落とした大聖堂に行列が入場した。「キリストの光」と3度歌われる中、大ろうそくから、教皇のろうそくへ、そして次々と人々のろうそくへと、ともし火が移され、光の道を浮かび上がらせながら、行列は祭壇へと進み、最後に大聖堂の照明が灯された。

続いて、助祭によって復活賛歌がラテン語で朗唱された。人々はろうそくを手に、復活の主の勝利を知らせ、世の闇に打ち勝った永遠の王の光の輝きを称える賛歌に耳を傾けた。

次に行われた「ことばの祭儀」では、豊かに聖書朗読が行なわれた。

ここでは、旧約聖書から「創世記」(1,1.26-31)(22,1-2.9. 10-13.15-18)、「出エジプト記」(14,15-15,1)の3つの朗読と、使徒聖パウロの書簡の中から「ローマの信徒への手紙」(6,3-11)、そして福音朗読では「マルコによる福音」(16,1-7)が朗読された。

第3部、復活徹夜祭の伝統である「成人の洗礼式」では、教皇はイタリアをはじめ、アルバニア、ペルー、ナイジェリア、米国を出身とする8人に洗礼を授けられた。

「感謝の祭儀」によってキリスト教の様々な象徴に満ちた復活徹夜祭は終了。会衆は最後に「レジナ・チェリ」を歌い、御子キリストの復活の喜びを聖母と共にした。

教皇フランシスコは、この「復活の聖なる徹夜祭」の説教で次のように話された。

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大聖堂の外から始まったこの儀式は、夜の闇と、寒さに覆われていました。わたしたちは主の死を前に、沈黙の重さを感じていました。十字架を前に言葉を失った弟子たちの心の裂け目に降りていったその沈黙を、わたしたち一人ひとりも感じていたのです。

それは、イエスの死による苦しみに押し黙った弟子たちの時間でした。この現実を前にして、一体何が言えたでしょうか。沈黙した弟子は、主の受難のさなかに自分がとっていた言動を省み始めていました。師に死刑を宣告した不正義の前で、弟子たちは黙っていました。師が受けた中傷と偽りの証言を前に、弟子たちは口を閉ざしました。主の受難の試練と苦悩の時に、弟子たちは師のために証言するという危険を冒せない自分の無能さを、悲劇的なまでに味わっていました。それだけではありません。弟子たちは師と共にいたことを否定し、隠れ、逃げ、沈黙していたのです(参照:ヨハネ18,25-27)。

それは、自分を圧迫し取り巻く多くの痛ましい情況を前に、行き場を失い、硬直し、麻痺した弟子たちの沈黙の夜でした。今日の弟子たちもまた、わたしたちの多くの兄弟たちの身の上に降りかかる不正義に対し、どうすることもできないと思いこみ、現実を前に沈黙しています。

それは、記憶を奪う繰り返しに押しつぶされ、希望を失い、「どうせいつもこうなのだ」という考えに慣らされて、疲れた弟子たちです。それは、「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか」(ヨハネ 11,50)という、カイアファの言葉に慣れ、それが普通と思い、最後には何も言えなくなり、ぼんやりしてしまった弟子たちです。       

わたしたちの間で、その沈黙がこれほどにも重苦しくなった時、「石が叫び出し」ます(参照:ルカ19,40)。そして、歴史が今まで知ることのなかった偉大な知らせが告げられるのです。「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」(マタイ 28,6)。墓の石は叫び、その叫びをもってすべての人に新しい命を告げたのです。その石は、福音の喜びの知らせを妨げていたすべての現実に対する命の勝利をこだまさせた、最初の被造物でした。最初に躍り上がったのはその石でした。その石は、賛美と感激、喜びと希望の歌に声を合わせながら、わたしたちもその歌に加わるようにと招くのです。

昨日、わたしたちは婦人たちと「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」(ヨハネ 19,37; 参照: ゼカリヤ12,10)という言葉を観想し、今日は、彼女たちと空の墓を見つめ、「恐れることはない。…復活なさったのだ」(マタイ28,5-6)という天使の言葉を聞きます。その言葉は、わたしたちが持っている最も深い確信、日常の様々な出来事への判断や対応、特に他者との関係のあり方に及ぼうとします。

空の墓は、わたしたちに挑み、揺さぶり、問いかけ、何よりも神に信頼するようにとわたしたちを勇気づけます。神はどんな状況、どんな人にも訪れ、その光は最も思いがけない場所、隠れた存在にも及ぶのです。キリストは死から復活しました。誰も何も期待していなかった場所から復活し、ご自身の救いの御業に参与するようにとわたしたちを待っておられます。これがわたしたちがキリスト者として尊厳の道を探求、構築する中で、命、エネルギー、知性、愛情、意志を賭けるための基礎と力です。

あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ!それは、わたしたちの希望を支え、それを具体的な愛徳の業に変容させる知らせです。わたしたちは自分の脆さに対し、どれだけこの体験から汲み取る必要があることでしょうか。わたしたちの信仰を新たにし、わたしたちの近視眼的見方を、この知らせによって刷新する必要がどれだけあることでしょうか。キリストは復活され、キリストと共に、わたしたちはもう一人ぼっちではないと知ることで、今日の問題に立ち向かうための、わたしたちの創造的希望がよみがえるのです。

復活祭を祝うことは、神はあふれ、わたしたちの歴史を満たし続け、硬直して、単調で、決まりきったわたしたちを揺さぶりに来られると、改めて信じることです。主の復活を記念することは、わたしたちを包囲し、あらゆる希望を埋没させる臆病な態度を、イエスによって打ち負かすことです。

墓の石は自分の役を果たし、婦人たちは自分の役を果たしました。今、その招きは、改めて皆さんに、そしてわたしに向けられています。繰り返しの馴れ合いから抜け出し、わたしたちの生活、選択、人生を新たにするように招かれています。それは、わたしたちが置かれた場所、わたしたちのすること、わたしたちのあり方において、それぞれ与えられた力をもって参与するよう招いています。この命の知らせに参与したいですか、それともこの出来事を前に口を閉ざすのでしょうか。

あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ!そして、あなたをガリラヤで待っておられます。イエスは最初の愛の時間、場所に帰るようにと招き、あなたにこう言うのです。「恐れるな。ついて来なさい」と。

01/04/2018 09:00