2018-03-28 11:07:00

「過ぎ越しの聖なる三日間」を観想、教皇一般謁見


教皇フランシスコは、バチカンで3月28日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

復活祭の直前の一週間、聖週間に入ってからのローマは、雲りがちとはいえ、穏やかな気温が続いている。

一般謁見の会場となった聖ペトロ広場には、国際フォーラムのためにローマを訪れた大学生らを中心に、多くの巡礼者が集った。

謁見中のカテケーシスで教皇は、翌日から始まる、教会の典礼暦の中で最も重要な、「過ぎ越しの聖なる三日間」の意味を説かれた。

主イエス・キリストの死と復活の唯一偉大な神秘を記念する「過ぎ越しの聖なる三日間」は、聖木曜日の「主の晩餐の夕べのミサ」から始まり、復活の主日の夕べの祈りで閉じる。

教皇はこの聖なる三日間を、キリスト者の信仰とこの世における召命の基礎をなすものと述べ、ユダヤ教の兄弟たちにとっての「出エジプト」の出来事のように、すべてのキリスト者はこの三日間を自分自身と教会共同体の存在の基盤と認識して過ごすよう促された。

復活の主日のミサの続唱(セクエンツィア)で響く、「わたしの希望、キリストは復活し、ガリレアに行き待っておられる」という言葉に、「過ぎ越しの聖なる三日間」の歓喜の極まりを見出しつつ、教皇は喜びと希望を告げるこの言葉が含む、キリスト者の責任と使命への呼びかけを指摘。

この知らせこそがわたしたちの信仰と希望の核心であり、教会はこのケリュグマ(福音の告知とその内容)に福音化されながら、自らも福音宣教へと派遣されていくと語られた。

「キリストが、わたしたちの過ぎ越しの子羊として屠られた」(1 コリント 5,7)。

「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(2 コリント5,17)。

「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです」(ローマ4,25)。

教皇はこのように、キリストの死と復活の神秘を説く使徒聖パウロの言葉を引用。

聖なる三日間は、キリスト教信仰の基礎となるこの出来事を記憶し、大きな感謝と共にそれを祝い、同時に自分たちの受けた洗礼の意味を新たにする時でもあると話された。

教皇は、キリスト者はキリストに真に洗われ、新しい命を生きるためにキリストによって古い人間を脱ぎ捨てるならば、わたしたち皆がそうであるように、罪びとであり続けながらも、魂に死を抱えて生きることはもうないと説かれた。

そして、わたしたちはイエスが自分たちに与えてくださった愛を、今度は隣人たち、特に最も小さく苦しむ人々に与えることを知り、こうして世界は、わたしたちの復活した新しい命の生きる場所となると語られた。

教皇は、イエスの受難においてその十字架の下まで従った聖母マリアと共に、この聖なる三日間の霊的過程をたどり、わたしたちのために死に、復活されたキリストの神秘に深く思いをはせるよう信者らに願われた。








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