2018-03-21 11:31:00

「聖体に養われ、イエスと似た者となる」教皇一般謁見


教皇フランシスコは、バチカンで3月21日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)の冒頭、教皇はこの日迎えた「春分の日」に言及。信仰を花々に喩え、小さな講話を行われた。

春になると草木は花を開くが、水やりの足りないものや、根が切れてしまった草木は、十分に花を咲かせることができないと教皇は指摘。

信仰についても同様であり、愛徳の業や善を行うことにおいて花開くべきキリスト教生活も、しっかりした根を持たなければ、花を咲かせることはできない、と話された。

信仰の根とは何か、それはイエスであると述べた教皇は、イエスという根にしっかりつながり、祈りと秘跡を通してその根元に水をやることで、この春、花開く復活祭を迎えて欲しいと信者らに願われた。

教皇は継続中のミサ聖祭をめぐるカテケーシスで、この日、「交わりの儀」の「聖体拝領」について考察された。

教皇は、キリストは、わたしたちをご自分と一致させるために、みことばと聖体を通してご自身を与えられ、わたしたちはキリストによって養われるためにエウカリスチアを記念すると話された。

そして、最後の晩餐でご自分の体と血を弟子たちに与えられたイエスは、今日も、司祭と助祭、正式に任命された聖体授与の臨時の奉仕者の手を通して、兄弟たちに命のパンと、救いの杯を与え続けていると語られた。

司祭は聖体拝領において授ける聖別されたパンを信者らに示した後、「神の子羊の食卓に招かれた者は幸い」という言葉と共に、喜びと聖性の源であるイエスとの親密な一致を体験するよう、信者たちを聖体拝領に招く。

この招きは、わたしたちを喜びに満たすと共に、信仰に照らして、わたしたちの良心を問い、自分の罪深さを意識させ、それからの救いを願わせるものであると、教皇は述べられた。

それゆえに、わたし たちは信仰のうちに、「神の子羊、世の罪を除きたもう主」に向かい、「主よ、わたしはあなたをお迎えするような者ではありません。ただ、一言おっしゃってください。そうすれば、わたしの魂はいやされます」」(日本の教会の場合:「あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、あなたをおいてだれのところに行きましょう」)と祈る。

「聖体拝領の ために行列を作って進むのはわたしたちであるが、実際には、キリストご自身からわたしたちに会いに来られ、わたしたちをご自身に似た者にすることを望まれる。」

「聖体に養われるとは、わたしたちが受け取るものに似るように、変容させられることである。わたしたちが聖体を拝領するたび、わたしたちはイエスにおいて変容され、イエスにより似た者となる。」

「パンとぶどう酒が主の体と血に変化したように、聖体を拝領する者は、信仰を通して、『生きたエウカリスチア』へと変容される。」

教皇はこのように説かれた。

司祭は聖体を信者らに授与しながら、「キリストのからだ」といい、拝領した人は「アーメン」と答え、感謝を表すと共に、キリストと一致するための努力を自覚する。

キリストと一致しながら、エゴイズムから抜け出し、すべての人がイエスのもとにただ一つとなること、これが聖体拝領の素晴らしさであると教皇は話された。

教会は信者がミサでキリストの御体を拝領することを熱心に願うものであると教皇は述べつつ、その聖体礼拝は、しるしの観点からは、両形態のもとになされる拝領は、より充実した形式を備えているが、カトリックの教義はパンの形態だけの拝領でも両形態と同じ恵みが与えられると教えていることを説明された。

次に、教皇は聖体拝領時の具体的な所作について、「通常、信徒は行列を作って聖体拝領に向かい、司教協議会が定めるところに従い、崇敬をもって立って聖体を拝領するか、あるいは跪いて拝領する。その際、聖体を口で受けるか、許可のある所では、手の上に受けることができる」と話された。

さらに、聖体拝領後の沈黙の祈りは、受け取った恵みを心のうちに大切に守るために必要なことであり、沈黙を少し長引かせ、心の中でイエスと話すことは、わたしたちにとって大きな助けになると語られた。

また、その際、詩編や賛歌を歌うこともできるが、これらもわたしたちが主と共にいるための助けになると述べられた。

感謝の典礼は、聖体拝領後の拝領祈願によって終わるが、そこで司祭は全会衆を代表し、神に向かい、その食卓に招かれたことを感謝し、受け取ったものがわたしたちの命を変容させることを祈る。

教皇は、エウカリスチアは、わたしたちがキリスト者として生き、よい実を実らせることができるよう、わたしたちを強めてくれると話された。








All the contents on this site are copyrighted ©.