2018-03-14 11:42:00

「主の祈り」は「神の子らの祈り」、教皇一般謁見


教皇フランシスコは、バチカンで3月14日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

このところ不安定な空模様が続くローマだが、この日は久しぶりに朝から青い空が広がった。

バチカンの聖ペトロ広場で行われた教皇一般謁見は、世界各国の巡礼者たちで活気付いた。

教皇による「ミサ聖祭」をテーマとしたカテケーシス(教会の教えの解説)では、この日は「感謝の典礼」に続く「交わりの儀」の考察が行われた。

ミサでは、「感謝の典礼」の「エウカリスチアの祈り」の後、「交わりの儀」に入ると共に、「主の祈り」が皆で唱えられる。

教皇は「主の祈り」について、単にキリスト教の多くの祈りの中の一つではなく、「イエスがわたしたちに教えられた偉大な祈り、『神の子らの祈り』である」と強調。

「実際、キリスト者にとって「主の祈り」は、洗礼を受けたその日から、イエスの御父に対する気持ちを自分たちのものとして心に響かせるようになる。」

「主の祈り」でわたしたちは神に向かって「父よ」と呼びかけるが、それはわたしたちが水と聖霊によって神の子として生まれ変わったからである。神の子とする霊を受けずして、誰も神を『アッバ、父よ』と親しみを込めて呼ぶことはできない(参照:ローマ)8,15)。」

とこのように話された。

「主の祈り」の中で、わたしたちは「日ごとの糧」を願うが、ここには神の子として生きるために必要な「聖体」への特別な言及があることを教皇は指摘。

また、この祈りでは「わたしたちの罪のゆるし」を願うが、神のゆるしを受けるためには、「わたしたちも人をゆるす」ことが必要であると、述べられた。

このように「主の祈り」は、わたしたちの心を神に開かせながら、わたしたちに兄弟愛を持つよう教えていると、教皇は語られた。

「主の祈り」で悪からの救いを祈るように、この祈り の後、司祭は、いつくしみ深い父が、すべての悪からわたしたちを救い、現代に平和を与えてくださるように祈る。

そして、神の御旨に従い、教会に平和と一致が与えられるように祈った後、「平和のあいさつ」が行なわれる。

ここでは、聖体拝領の前に、教会の一致と、互いの愛を表現するために、具体的な態度をもって、平和のあいさつが交換される。

教皇は、兄弟愛を生きることのできない心、兄弟愛を傷つけられても、それを修復できない心には、キリストの平和は根付くことができないと話された。

平和を態度で示した後、「パンを裂くこと」が行なわれる。

初代教会の信者たちは、自分たちのエウカリスチアの集いをこの表現をもって呼ぶようになった(カトリック教会のカテキズム、1329)。

イエスが最後の晩餐で行なったパンを裂く行為は、「パンを裂いてくださったときにイエスだとわかった」(参照:ルカ24,30-31.35)とエマオでの出来事に記されるとおり、復活後のイエスと出会った弟子たちを、それがイエスであると気付かせることになった。

聖体拝領の前には、「平和の賛歌(アニュス・デイ)」が歌われる。

ここには、「世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ1,29)と洗礼者聖ヨハネが呼んだイエスの姿がある。

教皇は、子羊が聖書の中で贖いと結び付けられてきたことを説明された(参照,出エジプト記 12,1-14; イザヤ53,7;1 ペトロ1,19; 黙示録7,14)。

祈りの中にある会衆は、世にいのちを与えるために裂かれたエウカリスチアのパンのもとに、真の神の子羊、すなわち贖い主キリストを認め、「われらをあわれみたまえ」。「われらに平安を与えたまえ」と祈りを上げる。

教皇は、イエスご自身が教えてくださった「主の祈り」と共に、神にあわれみと平安を願う「平和の賛歌」は、神と兄弟たちとの交わりの源である聖体の祝宴に参加する準備をわたしたちのために整えてくれるものと話された。








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