2018-02-19 12:12:00

「四旬節は霊的な闘いの時」教皇、日曜正午の祈りで


教皇フランシスコは、2月18日、日曜正午の祈りの集いを持たれた。

この日は時おり雨の降る不安定な空模様にも関わらず、バチカンの聖ペトロ広場には大勢の巡礼者が訪れ、教皇の言葉に耳を傾けた。

復活祭前の準備期間「四旬節」に入ってから最初の主日(日曜日)、教皇はこの日の福音朗読箇所、荒れ野で誘惑を受けるイエスのエピソード(マルコ1,12-15)をめぐり説教を行われた。

イエスはこの世における使命を準備するために荒れ野に行ったと教皇は説明。

イエスには回心の必要はないが、人間としてこの誘惑を体験する必要があった、それは自分のため、御父への従順のため、またわたしたちに誘惑に勝つ恵みを与えるためであったと話された。

教皇は、イエスの荒れ野における準備の内容は、サタンと戦うことにあったと述べつつ、わたしたちにとっても、四旬節は霊的な闘いの時であり、わたしたちは祈りを通して、神の助けと共に、日常生活の中で悪と対決し、それに勝つようにと招かれていると説かれた。

わたしたちの人生や、自分たちの周りに働く悪の存在について、教皇は、暴力や、排他主義、戦争、不正義などの見られる場所に悪の業を見ることができると話された。

荒れ野で誘惑を受けた後、イエスはすぐに「善き知らせ」、すなわち福音を述べ伝え始める。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1,15)という、イエスの善き知らせは、人間に悔い改めと信仰を要求していると、教皇は指摘。

十分に神の方に向き合っていないわたしたちは、毎日回心し、頭と心を常に神の方に向け続ける必要があると説かれた。

回心のためには、わたしたちに道を外れさせるすべてのこと、わたしたちのエゴイズムを欺瞞に満ちた方法で惹きつける偽の価値観などを跳ね返す勇気が必要であり、同時に、主ご自身に、また主の優しさ、わたしたち一人ひとりに用意された愛のご計画に信頼することが大切と語られた。

四旬節は悔悛の時であるが、悲しみの時、喪に服す時ではないと述べた教皇は、それは、わたしたちのエゴイズムや古い人間を脱ぎ捨て、洗礼の恵みにふさわしく自分を刷新する、喜びと真摯さに満ちた努力の時であると話された。

教皇は、回心の歩みと悪に対する闘いをテーマにしたこの日、ご自身の思いを特に受刑者らに向けられた。

「主は赦すことにおいて疲れを知らない」と話す教皇は、刑務所にいるすべての受刑者に対し、いつくしみ深い主の眼差しのもとで、四旬節を自分の人生の和解と刷新の機会とするよう励ましを述べられた。

 

 

 

 








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