2018-01-31 10:58:00

典礼の中で神ご自身が語る言葉に耳を傾ける、教皇一般謁見


教皇フランシスコは、バチカンで1月31日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

謁見中、教皇は「ミサ聖祭」をめぐるカテケーシス(教会の教えの解説)を続けながら、この日は「神とその民の対話である、ことばの典礼」をテーマに講話された。

ミサの導入部に続く「ことばの典礼」は、神のみ業とご計画について耳を傾けるために集ったわたしたちのために、ミサの本質をなす部分の一つと教皇は強調。

教会において聖書が読まれる時、神ご自身がご自分の民に語りかけ、キリストご自身がその言葉を通して福音を告げると話された。

そのため、教皇は、聖書の言葉が読まれている時、すなわち第一・第ニ朗読、答唱詩編、福音朗読の時、わたしたちは心を広げて、神ご自身が語りかける言葉に耳を傾け、他のことを考えたり、おしゃべりをしていてはいけないと注意された。

聖書が朗読される時、聖書のページは書かれたものから、神によって話される生きた言葉となり、神はわたしたちにそれを聞くようにと呼びかけられると教皇は説いた。

「神はわたしたちに語られ、わたしたちはそのみ言葉に耳を傾けた後で、聞いたことを実行に移さなければなりません。」

「わたしたちは神のみ言葉を聞くことを必要としています。『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』(マタイ4,4)とイエスが言われたとおり、それは人生にかかわる問題です。」

教皇はこのように話された。

この意味で、「ことばの典礼」は、主がわたしたちの霊的生活の糧として並べる、食卓のごちそうのようなものであり、その食卓は、旧約・新約の両聖書から幅広く汲み上げた宝物に満ちあふれていると教皇は指摘。

典礼の一年間を導く、共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)による3通りの周期の豊かさはもとより、先に行われた朗読の観想を助ける答唱詩編の重要性にも触れつつ、これらの朗読や聖書からとった歌の唱和は、共同体の、また信者一人ひとりの歩みに寄り添いながら、教会の交わりを表し、それを促していくと語られた。

朗読を怠ること、あるいは聖書以外のテキストで置き換えることは禁じられていると教皇は教えつつ、み言葉を聞かず、別のもので代用することは、神とその民の対話を損じることになると話された。

教皇は、主のみ言葉は、わたしたちが道に迷わないために、欠くことのできない助けと述べ、典礼の中で響くみ言葉に養われ、それに照らされずして、どのようにわたしたちはこの地上の巡礼を続けることができるだろうかと問われた。

「神のみ言葉は、耳で聞くだけでは十分ではなく、み言葉の種を心に受け、それが実を結ぶようにしなくてはならない」「耳で聞いたみ言葉が心に移り、次に心から手に移り、良い業となっていくように」と教皇は信者らを励まされた。

 








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