2018-01-03 12:17:00

ミサ中の「回心の祈り」について考える、教皇一般謁見


教皇フランシスコは、バチカンで1月3日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

2018年最初の教皇一般謁見は、世界各国の巡礼団と共に、バチカン市国内のパウロ6世謁見ホールで開催された。

教皇はミサ聖祭をめぐるカテケーシス(教会の教えの解説)で、この日はミサの導入部における回心の祈りについて考察された。

回心の祈りは、神と兄弟たちの前で自分の罪を認めることによって、ミサ聖祭によりふさわしい態度で臨めるように、わたしたちを助けるものと教皇は説明。

わたしたちは皆罪びとであるがゆえに、実際、司祭による回心への招きは、祈りの中にある共同体全体に向けられていると話された。

自分のことや、自分の成功だけでいっぱいの心で、何を神に捧げることができるだろうかと問う教皇は、「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」(ルカ18,9-14)を例に引き、尊大な者は自分を正しい人間であると自惚れているために赦しを受けることができないが、それに対して、義とされて家に帰ったのは、自分の惨めさを知り、謙遜に憐れみを請う徴税人の方であったと述べられた。

沈黙のうちに良心の声を聴くことは、わたしたちの思いが神の思いとかけ離れ、わたしたちの言葉や行いが福音の教えとは反対の世俗的なものであることに気付かせると教皇は話された。

ミサの導入部で行われる回心の祈りでは、共同体として一緒に告白が行なわれるが、その中で、「わたし」(一人称単数)という立場で一人ひとりが、罪の総告解の式文を通し、「思い、言葉、行い、怠りによってたびたび罪を犯した」ことを、神と兄弟に対して告白する。

教皇は、自分が行えたはずの善を行なわなかったという意味で、「怠り」も告白すべき罪の一つであると述べ、隣人に対して悪いことを行なわないというだけでは十分ではなく、善を行う機会を逃してはならないと説かれた。

また、教皇は、神と兄弟の両方に自分の罪を告白することは、罪がわたしたちを神から引き離すだけでなく、兄弟たちからも引き離すものであることを理解させると語られた。

さらに、回心の祈りを声を出して唱える時、胸を手で打つ動作を伴うが、これは罪がまさしく自分のものであると誠実に認め、他に転嫁するものではないことを表していると解説された。

罪の告白の後、聖母マリア、すべての天使と聖人、そして兄弟たちに、罪深い自分のために神に祈って欲しいと願うが、教皇はここに、神との完全な一致へ向かって歩むわたしたちを支える、諸聖人たちとの貴重な交わりを見出された。

聖書は、罪の後に心を新たにする恵みに自分自身を開いた「回心者たち」の輝かしい模範を示してくれると述べた教皇は、「神よ、わたしを憐れんでください、御いつくしみをもって。深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください」(詩編51,3)と言ったダビデ王や、父親のもとに戻ってきた放蕩息子、「神様、罪びとのわたしを憐れんでください」(ルカ18,13)と言った徴税人の祈り、また、聖ペトロや、ザアカイ、サマリアの女などの言葉や態度を思い出すよう招かれた。

自分の弱さを認めると当時に、心を開き、わたしたちを変容させ、回心させる神のいつくしみを祈り求める、これがミサの始めに行なう回心の祈りの意味であると教皇は述べられた。

 








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