2017-12-26 13:04:00

聖ステファノの祝日:教皇「イエスを受け入れ、その勇気ある証し人となれるように」


教皇フランシスコは、12月26日、聖ステファノの祝日に、巡礼者と共に正午の祈りを唱えられた。

カトリック教会の典礼暦は、主の降誕の翌日26日に、キリスト教の最初の殉教者、聖ステファノ助祭を記念する。

この日は朝から曇りがちな日となったが、降誕祭の休暇にバチカンを訪れた多くの人々で、聖ペトロ広場は賑わいを見せていた。

教皇は集いの説教で次のように話された。

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親愛なる兄弟姉妹の皆さん

イエスの地上における誕生を祝った後、今日、わたしたちは最初の殉教者、聖ステファノの天国における誕生を記念します。一見、この二つの祝日は互いに関係がないように思われるかもしれません。しかし、実際にはとても強い関係があるのです。

昨日、主の降誕の典礼で、わたしたちは次の言葉が高らかに告げられるのを聞きました。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ 1,14)。

聖ステファノは「信仰と聖霊に満ち」 (使徒言行録 6,5)、人々の間におられる神の新しい現存を固く信じていたために、長老たちを動揺させました。ステファノは神の真の神殿とは、いまやイエスであると知っていました。イエスはわたしたちの間に住まわれるためにやって来られた永遠のみことばであり、罪以外は、わたしたちとまったく同じようになられました。ステファノはエルサレムの神殿の破壊を説教したかどで訴えられました。彼に向けられた訴えは、「あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう」(使徒言行録6,14)と明言したことに対してでした。

実際、イエスのメッセージは不都合なものであり、わたしたちにとってやっかいなものです。なぜなら、それは世俗的な宗教権力に挑戦し、良心の糾明をさせるものだからです。イエスの到来の後、そこには回心し、メンタリティーを変える必要、元のように考えることを諦める必要が生じました。

ステファノは死に至るまで、イエスのメッセージと固く結ばれていました。彼の最後の祈りは、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(使徒言行録 7,59-60)というものでした。

この二つの祈りは、イエスが十字架上で言った「父よ。わたしの霊を御手にゆだねます」» (ルカ 23,46)と「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ 23,34)を忠実に反映するものでした。ステファノのこの言葉は、神の御子がこの地上に来られ、わたしたちのために死に、復活されたからこそ可能となったのです。これらの出来事は、その以前には人間の力では到底考えられないことでした。

ステファノは、イエスに自分の霊を受け取って欲しいと願います。実際、復活したキリストは主であり、臨終の時だけでなく、人生のあらゆる時における、神と人間との間の唯一の仲介者です。キリストを離れては、わたしたちは何もできません(参照:ヨハネ 15,5)。

わたしたちもまた、プレゼピオの幼子イエスの前でこのように祈ることができます。「主イエスよ、わたしたちの霊をあなたにゆだねます。お受け取りください」と。わたしたちの人生が福音に基づいた真に良いものとなるようにと願うのです。

イエスはわたしたちの仲介者であり、わたしたちを神との間はもとより、自分たちの間においても和解させてくださいます。イエスは愛の源として、わたしたちを、あらゆる争いや怨恨から解放し、兄弟たちと一致し、互いに愛し合うようにしてくださるのです。怨恨は醜いもので、わたしたちのためになりません。イエスはこれを取り去り、わたしたちが愛し合うようにしてくれます。これはイエスの奇跡です。

わたしたちが、御父における信頼と、隣人に対する愛という、二つの態度をとることができるよう、わたしたちのためにお生まれになったイエスに願いましょう。この態度は人生をより素晴らしく、実り多いものに変えるでしょう。

贖い主の母、殉教者たちの母であるマリアに、信頼をもって祈りましょう。わたしたちがイエスを自分たちの人生の主として受け入れ、福音への忠実のために自己犠牲をも厭わない、イエスの勇気ある証し人となれるよう、聖母の助けを願いましょう。

 








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