2017-11-15 13:20:00

「ミサは祈り、イエスとの出会い」教皇一般謁見


教皇フランシスコは、バチカンで11月15日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

謁見中、教皇は先週から始められた聖体祭儀をめぐるカテケーシス(教会の教えの解説)として、この日は「ミサは祈りである」をテーマに講話された。

ミサ聖祭の素晴らしさを理解するために、教皇はミサの一つの側面、「ミサは祈りである。むしろ、最高、至高にして、同時に最も具体的な祈りである」ということから始めたいと述べられた。

では、祈りとは何であろうかと教皇は問い、祈りとはまず何よりも神との対話、神との個人的な関係であると強調。

人生とは主との最終的な出会いに向かう道であるように、人間は創造主である神との出会いにおいてのみ、自身の完全な実現をみるように関係づけられていると話された。

創世記が言うように、神はご自分にかたどって人を創造されたが、御父、御子、聖霊の三位一体の神の、その愛の完全な関係に、わたしたちも入るようにと造られていると教皇は説明された。

燃える柴の間から、神はモーセに「わたしはある。わたしはあるという者だ」(出エジプト記 3,14)と言われ、さらに「あなたたちの先祖の神、イサクの神、ヤコブの神である主」と、神の民のためのその存在を示された。

イエスもまた、弟子たちを呼ばれる時、弟子たちがご自身と一緒にいるようにと呼ばれる。ミサは、イエスと一緒にいて、イエスを通し、神と兄弟たちと共にいるための、この上ない瞬間であると教皇は話された。

教皇は、祈るとは、すべての真の対話と同様に、沈黙することも必要と述べ、祈りの沈黙はイエスと一緒に沈黙しているということと話された。

わたしたちがミサに与る時、ミサの始まる直前まで隣の人とおしゃべりをしていることがあるが、それはおしゃべりのための時間ではなく、イエスとの対話、イエスとの出会いを準備するための沈黙の時間であると、注意を促された。

神の神秘の沈黙から、みことばは発せられ、それはわたしたちの心に響くと教皇は述べ、福音書の中でイエスもまた人里離れた場所で祈っていたことを思い起こされた。

弟子たちは、イエスの御父との深い関係を目の当たりにして、自分たちもそれに加わりたいと思い、「主よ、わたしたちにも祈りを教えてください」(ルカ11,1)と頼んだ。

イエスがまず教えたことは、「父よ」と、御父に子の信頼と謙遜を込めて呼びかけることができなくてはならないということだったと教皇は指摘。

天の国に入るには、子どものように自ら小さくならねばならないと、子どもが親に寄せる信頼と親密に満ちた態度の必要を示された。

またもう一つ大切なことは、やはり子どものように、驚きを持つということであると教皇は説き、世界を知るためにいろいろなことを尋ねる子どもの、好奇心と驚きに満ちた態度が、常に生き生きとした主との出会いに必要と話された。

イエスは、ニコデモという人物との出会いで(ヨハネ 3,1-21)、人は新たに生まれる必要があると説いている。新たに生まれるとはどういうことか、これがわたしたちの信仰の根本的な問いであり、新たに生まれること、やりなおす喜び、それはすべての真の信者の望みであると教皇は語られた。

そして、わたしたちはその望みを持っているだろうか、日常の忙しさの中で、本質を見つめる目、霊的な生活、祈りにおける主との出会いを見失っていないだろうかと問われた。

主はわたしたちの弱さにおいてもわれわれを愛され、わたしたちを驚かせ続けると述べた教皇は、主は真の慰めの源であるこの恵みを聖体を通して与えられる、ミサの中で主はわたしたちの弱さに会いに来られると話された。








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