2017-11-13 15:06:00

「信仰と愛をもって、イエスとの出会いに備える」教皇、日曜正午の集い


教皇フランシスコは、バチカンで11月12日、日曜正午の祈りを巡礼者らと共に唱えられた。

集いの中の説教で、教皇はこの日の福音朗読箇所、マタイ福音書の「十人のおとめ」のたとえ(マタイ25,1-13)を取り上げられた。

教皇は、このたとえについて、天の国に入るための条件を示すものと説明。

たとえに登場する10人のおとめたちは、婚礼における花婿の付き添い役であるが、当時婚礼は夜に行なわれる習慣があったため、これらのおとめたちはともし火を持っていたことを紹介された。

このたとえの中では、10人のおとめのうち、5人は愚かで、5人は賢かった。賢いおとめたちは、ともし火と一緒に油を持っていたが、愚かなおとめたちには、油の用意がなかった。

花婿の到着が遅れる中、皆眠り込んでしまったが、真夜中に花婿の到着が知らされると、愚かなおとめたちはともし火の油がないことに気付き、油を分けて欲しいと賢いおとめたちに言った。しかし、賢いおとめたちは、分けるほどはなく、皆の分には足りないと答えた。

愚かなおとめたちが油を買いに行っている間に、花婿が到着した。賢いおとめたちは花婿と共に婚宴の席に入り、戸は閉められた。愚かなおとめたちは遅れて着いたために、戸をあけて欲しいと頼んだが、主人は「わたしはお前たちを知らない」と答えた。

教皇は、ここでイエスが教えているのは、わたしたちはイエスとの出会いに備えていなければならないということであると強調された。

福音書の中でイエスは、目覚めているようにとしばしば勧告しているように、このたとえの終わりにも「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」(マタイ25,13)と教えている。

教皇は、このたとえの言う「目覚めている」という意味は、単に眠らないということではなく、準備ができているということであり、実際、花婿の到着した時、全員が眠り込んでいたが、目が覚めた時に、ある者は準備ができており、ある者は準備ができていなかったと指摘。

賢明で慎重でいることが重要であり、神の恵みに協力するためには、人生の最後の瞬間を待っていてはならない、常に最後の日であるかのように自分を整えているべきと語られた。

また、教皇は、ともし火は人生を照らす信仰の象徴、油は信仰の光を育み、豊かで信じうるものにするための愛(カリタス)の象徴であると説かれた。

「わたしたちが目覚めていて、愛と、分かち合い、困難にある人への奉仕に努めるならば、落ち着いて花婿の到着を待つことができる。毎日の善き業によって、油の蓄えがあるならば、主の訪れがいつであっても、たとえそれが死に際していても、驚くことはないだろう」と教皇は話された。

巡礼者への挨拶で教皇は、スペイン内戦中の1936年から37年にかけて、信仰への憎悪による迫害を受けて殉教した、ビンセンテ・ケラルト・リョレートと20人の同志殉教者、ホセ・マリア・フェルナンデス・サンチェスと38人の同志殉教者の列福式が、前日11日、マドリッドで行われたことを報告。

これらの福者を通した、キリストと福音への模範的な証しの恵みを神に感謝された。

 

 








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