2017-11-08 12:26:00

「聖体」を新しいテーマとしたカテケーシス、教皇一般謁見


教皇フランシスコは、バチカンで11月8日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、教皇は今週から「聖体」をテーマに、新しいシリーズの考察を始められた。

考察の導入にあたるこの日、教皇は、教会の中心である「聖体」に眼差しを向け、神とわたしたちの関係をより完全に生きるために、ミサ聖祭の価値と意味を理解することを本質的な課題として示された。

キリスト教の2千年の歴史の中で、世界中の数多くの信者たちが自らの命に代えてまで聖体を守り、今日もまだ主日のミサに参加するために命を危険に晒さざるを得ない人々の状況に教皇は言及。

これに関連し教皇は、304年、ディオクレティアヌス帝によるキリスト教迫害下に起きた、北アフリカの信者たちの殉教について語った。

この共同体は家でミサを捧げている時に逮捕され、なぜ禁止されているミサを行なったのかと尋問された。これに対し、信者たちは「主日なしではわたしたちは生きられません」と答えた。

教皇は、信者たちのこの言葉は、「聖体を祝えないのならば、わたしたちのキリスト教生活は死んだものになる」ということを意味している、と話された。

「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(6,53-54)というイエスの言葉を教皇は引用。

北アフリカの信者たちの証しは、ミサ聖祭に参加し、主の食卓に近づくとはどういうことなのか、その問いをわたしたち一人ひとりに呼びかけていると語られた。

わたしたちはミサの中で、永遠の命のためにほとばしる命の水を求めているだろうか、自分の生活を賛美と感謝の霊的な捧げ物としているだろうか、と教皇は問いながら、聖体の最も深い意味は三位一体の神に対する「感謝」であると強調された。

第2バチカン公会議は、キリスト者を信仰の偉大さと、神との出会いの素晴らしさの理解へと導こうとする熱意に満ちていたと教皇は語り、教会が典礼によって生き続け、新たにされていくために、適切な典礼の改革を必要とし、真の刷新のために不可欠である、信者たちの典礼的育成に注意が払われたと振り返った。

ミサ聖祭は、わたしたちの命であるイエス・キリストがそこに現存されるという素晴らしい出来事であり、ミサに参加することは、主の贖いの犠牲と死を再び体験することであると教皇は説いた。

なぜミサの始まりに十字のしるしをし、罪を認めるのか、なぜミサには朗読があるのか、なぜ司祭はある部分で「心を込めて神を仰ぎ」と言うのか、など、ミサの一つひとつの意味を考えるよう招く中で、教皇は「ミサの中では心を高く上げて神を仰ぐのであって、携帯電話を高く上げるのではありません」と、ミサ中の携帯電話による撮影などの行為を注意された。

秘跡の中で、触れるもの、見るものを通して、その秘跡の基礎に立ち返り、本質を再発見することが重要と教皇は指摘。

キリストの傷を見て、触れて、それを認めたいと思った使徒聖トマスの願いは、わたしたちの願いでもあり、神の愛のしるしとしての秘跡、特に聖体の秘跡は、その人間の要求に特別な形で答えてくれるものと話された。

 

 








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