2017-10-25 13:10:00

「希望の目的地としての天国」教皇一般謁見


教皇フランシスコは、バチカンで10月25日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

謁見中、教皇は「わたしたちの希望の目的地としての天国」をテーマに講話し、この典礼年の間に継続された「キリスト教的希望」をめぐるカテケーシスを締めくくられた。

「天国(楽園)」を、イエスの十字架上の最後の言葉の一つとして教皇は示しつつ、イエスと共に十字架につけられた二人の犯罪者のうち、「よい泥棒」と呼ばれる一人にイエスが向けた、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」という言葉について観想された。

イエスがゴルゴタの丘で十字架につけられた時、十字架上にいたのはイエス一人ではなく、二人の犯罪人が、右に一人、左に一人、十字架につけられていた。

この時、イエスの隣にいた犯罪人の一人、いわゆる「よい泥棒」は、イエスをののしるもう一人の犯罪人をたしなめ、「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」(ルカ 23,41)と、自分の罪を認める告白をした。

聖金曜日、イエスは人となられた神の極みとして、わたしたち罪びとに連帯を示され、苦しむ主のしもべは「罪びとの一人に数えられた」(イザヤ53,12、ルカ 22,37) というイザヤの預言を実現することになったと教皇は話された。

カルワリオでイエスは一人の罪びとと最後の出会いをし、彼のためにも御国の扉を開かれたと教皇は指摘。

認められるような善行もなく、何一つ価値あるものを持っていなくても、イエスに信頼し、無実で善良なイエスに比べ自分はこれほどにも違うと認め、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」という謙虚な言葉だけで、イエスの心を打つに十分であったと語られた。

「よい泥棒」はわたしたちが神を前にした時の真の状態を思い出させてくれると述べた教皇は、わたしたちが神の愛への郷愁を表すたびに、神は子であるわたしたちに憐れみをもよおすのであり、わたしたちが人生における良心の糾明をするたびに、良いことよりも欠点を多く発見しても、失望することなく、神のいつくしみに信頼することが大切であると説かれた。

教皇は、「楽園」はおとぎ話の場所でも、うっとりするような庭園でもなく、それは神との抱擁、無限の愛であると説明。わたしたちのために十字架上で死んだイエスのおかげでわたしたちはそこに入ることができると話された。

「臨終の時、キリスト者は『わたしを思い出してください』とイエスに繰り返すことで、そこに誰もわたしたちを思い出す人がいなくても、イエスはわたしたちのかたわらにおられる。」

「イエスはわたしたちを最も素晴らしい場所に連れていくことを、また、イエスによって贖われたわたしたちの人生の何一つ失われることないようすべてをそこに持っていくことを願われる。」

「これがわたしたちの人生の目的地であり、そこではすべてが完成され、すべてが愛に変容される。」

教皇はこのように語られた。

もし、これを信じるならば、死はもうわたしたちを恐れさせず、わたしたちは平安と大きな信頼のうちにこの世を旅立つ希望を持つことができると教皇は強調。

イエスを知った者は、もう恐れるものがない。「愛は決して滅びない」(1コリント13,8)と聖パウロが言うように、すべては過ぎ去るが、愛だけが残ると説かれた。

 

 








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