2017-10-18 13:45:00

「わたしは復活であり、命である」イエスの言葉に希望を置く、教皇一般謁見


教皇フランシスコは、バチカンで10月18日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

謁見中の教皇によるカテケーシス(教会の教えの解説)では、キリスト教的希望をめぐり、「主のうちに死ぬ者は幸い」をテーマに考察が続けられた。

教皇の講話に先立ち、ヨハネ福音書11章、ラザロの死に対し、イエスがラザロの姉妹マルタに、「あなたの兄弟は復活する」「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」と言う場面が朗読された。

教皇は、死の現実は、現代の文明の中で消されつつあると述べる一方、「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように」(詩編90,12)などの言葉に見られる、昔の人たちが持っていた死と正面から向き合う勇気を指摘。

死はわたしたちの人生を裸にし、わたしたちのプライドや怒りや憎しみが、ただの虚栄に過ぎなかったことに気付かせると共に、十分に愛さなかったこと、人生の本質を追求しなかったことを悔やませ、また、それと反対に、自分が蒔いた真に良い種を見つめることになると話された。

ラザロのエピソードを振り返った教皇は、イエスが友ラザロの墓を前に「心に憤りを覚え」て、「涙を流された」(ヨハネ11,35)その態度を、イエスをわたしたちの兄弟としてとても近くに感じさせるものと話された。

イエスは命の泉である御父に祈り、ラザロに墓から出てくるように命ずると、ラザロは出てきた。教皇は、キリスト教的希望は、イエスの人間の死に対するその態度から力を汲み取っていると述べられた。

教皇は、イエスが人の死を前にした時の、もう一つのエピソードとして、マルコ福音書5章、「ヤイロの娘」のエピソードを示された。

会堂長の一人ヤイロは、自分の幼い娘が死にかけていると、イエスのもとに来て助けを願い、そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行った。しかし、途中で子どもはもう亡くなったと知らされるが、イエスはヤイロに「恐れることはない。ただ信じなさい」(マルコ5,36)と言った。そして、イエスは家に入り、少女を死から目覚めさせ、両親の手に返した。

イエスはこうして、わたしたちを信仰の尾根の上に立たせると述べた教皇は、兄弟ラザロを亡くして泣くマルタにイエスが言った「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネ 11,25-26)という言葉は、わたしたちが人生の中で命や愛情と引き離されるたびに繰り返されていると説かれた。

わたしたちは皆、死の神秘を前に小さく無力であるが、その時、心に信仰のともし火が灯っているならばどれほどの恵みだろうかと語る教皇は、イエスはヤイロの娘にしたように、わたしたちの手を取って、「少女よ、起きなさい」( マルコ5,41)と繰り返してくださるだろうと話した。

 








All the contents on this site are copyrighted ©.