2017-10-11 11:34:00

目覚めて待つことの大切さ、教皇一般謁見


教皇フランシスコは、バチカンで10月11日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

謁見中、教皇は「キリスト教的希望」をめぐるカテケーシス(教会の教えの解説)として、「目覚めて待つこと」をテーマに講話された。

「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい」 (ルカ 12,35-36)。

教皇はイエスのこの言葉を示しつつ、主人が帰るまで決して眠らないしもべのように、目覚めて待つことを福音は教えていると話された。

「イエスは、わたしたちが神から贈られた毎日を感謝と驚きをもって受け入れるために、勤勉で、決して油断することがないようにと望まれている。」

「わたしたちはすでにイエスの贖いによって救われたが、イエスの完全な統治が表されるとき、『神がすべてにおいてすべてとなられる』( 参考:1コリント15,28)そのときを、わたしたちは待っている。救いと主との出会いのために、わたしたちは準備を整えていなければならない。」

教皇はこのように語られた。

「キリスト者は退屈を知らない、忍耐強い人々である」と言う教皇は、「キリスト者は単調な毎日にも、隠れた恵みの神秘を見つけ、どんな状況にあっても、愛に対して無感覚になることはない」、「全世界が希望を否定しても、キリスト者は未来にキリストの再臨があることを知っている」と話された。

イエスを知るおかげで、わたしたちは信頼と希望のうちに、歴史を注意深く見つめることができると教皇は指摘。

イエスは家で、わたしたちはその中にいるように、その窓を通してわたしたちは世界を眺め、自分自身や自分の過去に捉われずに、神の摂理の絶え間ない配慮の業としての未来を見つめることができると説かれた。

神は決して失望させない方であり、わたしたちに対するその御旨は、曖昧なものではなく、まっすぐな救いの計画であると教皇は話された。

「マラナ・タ」「主イエスよ、来てください」(黙示録22,20)と言う初期のキリスト教徒たちの言葉は、今もすべてのキリスト者たちによって繰り返されていると教皇は述べつつ、人生の困難な日々に、祈りの中で、「見よ、わたしはすぐに来る」(黙示録22,7)と、わたしたちを励ますその声を聞けるならば、どんなに大きな恵みだろうかと語られた。

教皇はこの謁見の席で、来る10月13日に、ポルトガル・ファティマで聖母の最後の出現から100年の記念年が閉幕することに言及。

主の母、宣教の女王マリアを見つめながら、特にロザリオの月であるこの10月、世界平和の意向のためにロザリオの祈りを捧げるよう、信者らを招かれた。

 








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