2017-10-09 11:51:00

「ぶどう園と農夫」のたとえを観想、教皇、日曜正午の集い


教皇フランシスコは、バチカンで10月8日、日曜正午の祈りの集いを持たれた。

教皇は説教で、この日の福音朗読箇所、マタイ福音書中の「ぶどう園と農夫」のたとえ(21,33-43)を取り上げられた。

このたとえ話では、農夫たちの主人への忠実が試される。

ある家の主人がぶどう園を作り、それを農夫たちに貸し、世話を託した。収穫の時期、主人は収穫を受け取るために自分のしもべたちを送ったが、農夫たちはぶどう園が自分たちの所有であるかのように振る舞い、収穫を手渡すのを拒み、主人のしもべたちに乱暴し、殺すまでに至った。

忍耐強い主人は、さらに多くのしもべを送ったが、結果は同じであった。最後には、主人は自分の息子を送ることを決意するが、農夫たちは跡取り息子を殺して、相続財産を自分たちのものにしようと、主人の息子までをも殺してしまった。

教皇はこのたとえ話は、イスラエルの歴史をめぐる預言者たちの叱責を寓意的に表していると説明。

それは神が人間と結ぶことを望まれた契約について語るものだが、その契約の歴史にわたしたちもまた連なっていることを思い起こさせた。

神と人間との契約の歴史には、すべての愛の物語と同様、良い時もあれば、裏切りや拒否に会うこともあると教皇は述べつつ、このたとえ話に見るように、神はわたしたちの過ちや罪に失望することがあっても諦めず、仕返しするのではなく愛する方であり、「家を建てる者の捨てた石」から、やがて「隅の親石」となったイエスを通して、神はご自身のぶどう畑の「新しいぶどう酒」、すなわち「いつくしみ」を行き渡らせる、と語られた。

辛抱強く、優しい神の御旨を前に、唯一つ障害となるものは、わたしたちの傲慢さや自惚れであると教皇は指摘。

実を結ばせないこうした態度に対する神の強い警告として、「神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」(マタイ21,43)というイエスの言葉を示された。

教皇は、主のぶどう園になるようにとの主の呼びかけに、善の実をもって答えるという急務に皆を招きながら、この愛の歴史に加わり、開いた、活気あるぶどう園となり、豊かな実と希望をもたらすことができるようにと願われた。

また、教皇は、閉鎖的なぶどう園は荒廃し、良いぶどうをもたらさないと述べ、あらゆる場所が主のぶどう園であるべきことを思い出すために、わたしたちは、ぶどう園の外の、わたしたちと共にいない兄弟姉妹たちに奉仕するよう召されていると話された。

 








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