2017-08-23 12:03:00

「万物を新しくする神」に置かれた希望、教皇一般謁見


教皇フランシスコは、バチカンで8月23日、水曜恒例の一般謁見を行われた。
 
謁見中、教皇は「キリスト教的希望」をテーマにしたカテケーシス(教会の教えの解説)を続けられた。
 
この日は、「見よ、わたしは万物を新しくする」という神のみ言葉(ヨハネの黙示録21, 5-7)に耳を傾けながら、物事を新たにされる神に置かれたキリスト者たちの希望について講話された。
 
「キリスト教的希望は、人生や歴史を常に新たにする神への信仰に基礎を置いている。神がもたらすものは、新しさと驚きである」と教皇は話された。
 
聖書の一番最後の書「ヨハネの黙示録」には、神を信じる者たちの最終の目的地、天上のエルサレムが示しされていると教皇は述べつつ、わたしたちがようやく神のもとにたどり着く時、神はどうなさるだろうかと問われた。
 
教皇は、神は、長い苦労に耐えた子らを迎える父親のように、限りない優しさをもってわたしたちを迎え、それは「見よ、神の幕屋が人の間にある... (神は)彼らの涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである...見よ、わたしは万物を新しくする」とヨハネが黙示録の中で預言しているとおりであると述べられた。
 
黙示録のこの節を、抽象的な方法ではなく、現代社会の悲しい出来事を意識しながら、観想してみるようにと、教皇は勧められた。
 
ここには、わたしたちと共に泣いてくださる神、わたしたちの苦しみを知っておられ、慰めを与える神、わたしたちに新しい未来を用意してくださる神がおられ、これがわたしたちの毎日に広がり、わたしたちを支える、キリスト教的希望の偉大な展望となっていると説かれた。
 
わたしたちは、人間の存在とは、死と憎しみに要約されるものではないと信じていると述べた教皇は、キリスト者であることは、希望に満ちた新しい眼差しを持つことと強調。
 
喜びは過ぎ去り、人生は無意味なものと、わたしたちキリスト者は考えず、むしろ、キリスト者とは、人類の彼方には常に輝く太陽があり、わたしたちの最良の日々はまだこれからやって来ると信じる、言うならば、秋よりも、春の人々と喩えられた。
 
また、キリスト者たちは、神の愛の王国は広大な麦畑のように成長し、たとえその中に毒麦があっても、麦は育ち、最後に悪は排除されると知っている、とも話された。
 
「イエス・キリストは人生の最大の恵み」と説く教皇は、最後にわたしたちを待つのは、神の抱擁であるが、イエスはすでにわたしたちの歩みに寄り添い、励ましながら、人と共におられる神の偉大な天幕に向けて、わたしたちを導いておられると語られた。







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