2017-08-13 17:58:00

日曜正午の祈り: 教皇「教会の救いは人間的な力ではなく信仰にある」


8月13日、真夏の日差しの下、バチカンの聖ペトロ広場は、正午の聖母への祈りを教皇フランシスコと共に唱えようと集った多くの巡礼者で一杯になった。教皇はこの日のミサの福音朗読をテーマに、信仰の重要さについて次のように話され、人々を励まされた。

「親愛なる兄弟姉妹の皆さん、今日のミサ中朗読されたマタイ福音書の一節は、わたしたち一人ひとりの信仰、また教会全体の共同体としての信仰について考えさせてくれます。

祈りの中に一人岸に残るイエスを後に、使徒たちは夜のガリラヤ湖に船を漕ぎ出します。しかし、逆風と大波に翻弄され、危険を感じ、恐れに襲われます。そこにイエスが水上を何もないかのように歩いてきます。皆は幽霊を見ているのかと、恐れ、惑います。イエスは、恐れおののく使徒たちに「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と声をかけ、励まします。使徒たちの頭、聖ペトロは、もしイエスご自身なら、水の上を歩いてそちらに行くよう、自分に命じて欲しいと願います。「来なさい」とのイエスの言葉に、ペトロは水上を歩き始めますが、押し寄せる大波におびえ、沈み始めます。そこで、ペトロは大声でイエスに「主よ、助けてください」と叫び、助けを求めます。

実に興味深いエピソードです。わたしたち個々の信仰、また教会全体の信仰について多くのことを考えさせます。波に翻弄される小舟は、様々な困難や危険、そして、試練に見舞われる自分自身の人生、また教会そのものの生活を表しています。聖ペトロがイエスに向けた「水の上を歩いてそちらに行かせてください」という言葉、そしてその後の「主よ、助けてください」という叫びは、イエスのそばにいたいというわたしたちの望み、同時に、生きていく上で不可欠な恐れや苦悩を思い起させます。わたしたちの内面的な弱さ、また外部からの困難を象徴しています。

ペトロにとって、イエスの言葉だけでは不十分でした。他の何かにすがりたいという弱さを見せています。しかし、これはわたしたち自身にも往々にして起こりうることです。イエスの言葉だけでは安心できずに、占い師やカード占いに頼ろうとします。

主に対する信仰、またそのみ言葉に対する信仰は、容易で平穏な生活を保証するものではありません。信仰は、わたしたちに主の現存の確かさを保証してくれます。わたしたちが人生の荒波に翻弄される時、イエスが共においでになるということ、困難に立ち向かうため、わたしたちを助けるために、手を差し伸べてくださる主がおられるとの確かさを差し出してくれるのです。

波にもまれる船は、あらゆる時代の教会の象徴でもあります。あらゆる方向から押し寄せる大波と嵐を乗り越えて、前進する教会そのものです。この船、すなわち教会を救うのは、人間の才能でも、勇気でもなく、それは遭難を前にして安全を保証するキリストへの信仰、そのみ言葉への信仰です。これこそが救いの保証です。

わたしたちのみじめさや弱さにも関わらず、この教会という船に乗っていればわたしたちは安全です。特に、弟子たちがそうしたように、「主よ、本当に、あなたは神の御子です」と言って、ひざまずき、主を礼拝する時、わたしたちは安心を味わうことができます。

聖母マリアがわたしたちがいつも、いつまでも、この船の中に留まれるように助けてくださいますように」。

 








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