2017-08-02 13:10:00

「希望の扉」としての洗礼の意味を考える、教皇一般謁見


教皇フランシスコは、バチカンで8月2日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

7月中は中断されていた教皇一般謁見は、8月の最初の水曜日から再開された。

このところのローマは厳しい熱波に見舞われていることから、謁見は暑さを避けて、パウロ6世ホールで開催された。

教皇はカテケーシスで「キリスト教的希望」の考察を継続しながら、「希望の扉としての洗礼」をテーマに取り上げられた。

そして、信者たちが洗礼の意味を再び捉えることができるよう、教皇は次のような講話を行われた。(以下、要約)

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かつて、教会は東を向いて建てられた時代があった。人々は西に設けられた扉から入り、本廊を歩き、祭壇のある東に向かって進んだ。それは昔の人々にとって重要なシンボルであったが、その意味は次第に忘れられていった。

西は日が沈む方向、すなわち光が没する場所である。それに対し、東は曙光が闇に勝利する場所、すなわち世を照らす太陽、キリストを象徴している。

古代の洗礼式で、洗礼志願者らは信仰宣言の初めの部分で、あらかじめ顔を西側に向け、そこで「悪魔を退けますか」との問いを受けた。洗礼志願者たちは声をそろえて「退けます」と答え、祭壇側、光が生まれる東側を向いた。そこで再び「御父、御子、聖霊を信じますか」と問われ、彼らは「信じます」と答えた。

現代ではこの洗礼の儀式の魅力は部分的に失われたが、信仰宣言は残り、今も変わらない意味を保っている。キリスト者であるとはどういうことか。それは光を見つめ、世界が夜の闇に包まれている時にも、光の下で信仰を宣言し続けることである。

キリスト者は、その内側も外側も、闇とは無縁ではない。キリスト者は世から離れて生きているわけではないが、洗礼を通して受けたキリストの恵みによって、闇ではなく、夜明けの光を信じるように「方向づけ」られている。死に打ち負かされずに、復活を熱望し、悪に曲げられずに、善の無限の可能性に信頼する人たちである。これがわたしたちのキリスト教的希望である。キリストの光がわたしたちを闇から救うのである。

わたしたちは父なる神を信じる者である。わたしたちの間に降りて来られ、わたしたちと同じ道を歩み、特に貧しい人や弱い人に寄り添われたイエスを信じる者である。人類と世界に善をもたらすために絶えず働き続ける聖霊を信じる者である。これらのすべてが光である。

洗礼式の終わりに、受洗した子どもの両親に、あるいは受洗した成人本人に、ろうそくが渡される。そこに灯される火は、復活の大ろうそくの火である。教会生活とは、光に触れ、それに自分も染まっていくことである。

洗礼日を互いに思い出すのは、素晴らしいことである。わたしたちは2回生まれている。最初は、自然の生命としての誕生。もう一つは、キリストとの出会いによる洗礼盤における誕生である。そこでわたしたちは神の子として生きるために、死に対して死ぬのである。わたしたちの中には、イエスの霊が生き、働いている。

キリスト者が「イエスを伝える者」となることは大きな恵みである。特に喪や失望、闇や憎しみの中にある人々にイエスを伝えることは大切である。

キリスト者が目の奥にたたえている光や、困難にあっても失われることのない心の平安、多くの失望にあっても再び愛そうとする態度から、人々はイエスを知ることができる。わたしたちが自分の洗礼に忠実であるならば、未来の世代に生きることの意味を伝えることができるだろう。

 








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