2017-06-28 15:05:00

殉教者の力としての希望、教皇一般謁見


教皇フランシスコは、バチカンで6月28日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

今年の6月、連日の晴天で、記録的な暑さに覆われたローマも、この日は曇りがちで一時的に雨が降るなど、不安定な空模様となった。

謁見で「キリスト教的希望」をめぐるカテケーシスを続ける教皇は、この日は「殉教者の力としての希望」をテーマに講話された。

「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる」という、マタイ福音書(10,22)のイエスの言葉にあるように、イエスは弟子たちを宣教に派遣する時、容易な成功の幻想を抱かせることなく、むしろ、神の御国を告げることで常に反対に会うだろうと、迫害を予告している。

教皇は、キリスト教徒とは「流れに逆らう人」と強調。

様々な形で表されるエゴイズムや不正義など、罪に満ちた世界において、キリストに従う者が反対の方向に向かうことは当然であると話された。

教皇はキリスト者のこうした生き方は、反骨精神のためではなく、神の御国の論理、希望の論理に忠実な、イエスの教えに基づく生き方であると述べられた。

弟子たちを宣教に送り出す際に、イエスが特に清貧さについて触れていることを教皇は指摘。

キリスト者は富や権力、そして自分自身への関心から離れているべきであり、謙遜で、清貧でないキリスト者は、イエスに似た者とは言えないと注意を促された。

キリスト者の唯一の力は福音であると述べた教皇は、「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」(マタイ10,30)とイエスが弟子たちを安心させているように、困難にあっても、神はわたしたちをご覧になり、必ず守り、解放してくださると説かれた。

イエスに死に至るまで忠実である生き方をした人々を殉教者と呼ぶと教皇は述べつつ、「殉教(マルティリオ)」とは、証しを意味する言葉であると説明。

殉教者は自分のために生きるのでも、自分の考えのために闘うのでもなく、ただ福音への忠実のために死を受け入れる人々であると話された。

一方で、教皇はキリスト者にとって最も大切なものは愛であることを明確に示しつつ、自分を犠牲にしたテロ行為を「殉教者」と呼ぶことを、キリスト者は受け入れないと述べられた。

過去と現在の多くの殉教者たちを思い起こされた教皇は、これらの殉教者の力は、イエス・キリストにおいて与えられた神の愛から誰も自分たちを引き離すことはできないという、大きな希望であったと語られた。

そして、神がわたしたちにその証し人となる力を、また毎日の義務を愛を込めて行うという隠れた殉教において、キリスト教的希望を生きる恵みを、与えてくださるようにと祈られた。








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