2017-06-16 14:08:00

「自分の弱さを認め、神と対話する」教皇、朝のミサの説教で


教皇フランシスコは、ミサの中で、自分の弱さを認めることが、神との真の対話につながると話された。

6月16日、教皇はバチカンのサンタ・マルタ館の礼拝堂で行われた朝ミサの説教で、わたしたち自身の弱さ、脆さ、罪を自覚するよう促されると共に、「誰も自分自身を救うことはできない。神の力だけがわたしたちを救い、癒すことができる」と述べられた。

教皇は、ミサ中朗読された、使徒聖パウロの「コリントの信徒への手紙2」(4,7-15)を引用。

ここで聖パウロは、わたしたちの心は、神のおかげで、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟ることができたと語り、「わたしたちはこのような宝を「『土の器』に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」と述べている。

教皇は、聖パウロが自分たちは「土の器」、すなわち弱く、罪深い存在であり、神の力なしでは進んでいけない者であることを教えていると話された。

人が「自分には癒しも支えも必要ない」、「わたしは土の器などではない」、「自分は自分の宝を持っている」と思う時、それは虚栄と傲慢の道へとつながると述べられた。

自分が「土の器」であることを隠し、否定することは、自身に対して誠実でなく、偽善的であるのと同じと述べた教皇は、自分が土の器であると自覚しながら、神の御言葉に触れることで、「宝」と「土の器」の間で対話が生まれると話された。

教皇は、神と自分との対話は、正直なものでなくてはならないと強調。

たとえば、「ゆるしの秘跡」に与る時、まるで「市場の値段表」のように、罪を並べてみせることは、「土の器」を白く、立派に見せようとするようなものであり、むしろわたしたちには、自分の弱さを認め、素直に「恥じ入る」ことが必要と語られた。

「わたしたちの心を広げるのは、恥じ入る心です。そこに神の力が入ってくるのです。恥ずかしく思うのは、自分が土の器であるからであって、金や銀の盆であるからではありません」、「こういう気持ちに至れば、わたしたちは幸いです。土の器と神の力の対話があるからです」と、教皇は話された。

イエスが最後の晩餐で弟子たちの足を洗った時のことを思い起こされた教皇は、ペトロは自分の足など決して洗わないで欲しいと言ったが、ペトロは自分が土の器で、主の救いが必要な者だということが、わかっていなかったと指摘。

自分を土の器だと認めることだけが、神の偉大な力をわたしたちにもたらし、満ち満てる心と、救い、幸福、救われた喜びを与えてくれるだろうと説かれた。

 








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