2017-06-08 17:53:00

「父である神に信頼と希望をもって祈る」教皇一般謁見


教皇フランシスコは、バチカンで6月7日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、教皇は「キリスト教的希望」をテーマに、「キリスト者の希望の源である神の父性」を考察された。

教皇は、ルカ福音書中の、イエスに弟子たちが「祈りを教えてください」と言い、イエスが祈り方を教える場面を取り上げられた。

イエスは朝晩、静かな場所に退いて一人で祈っていたが、そのイエスの祈りに魅了された弟子たちは、自分たちにも祈りを教えて欲しいと願った。

そこで、イエスが教えた祈りは、キリスト教の最高の祈り、「主の祈り」として伝えられることになった。

教皇はイエスの「主の祈り」を紹介するにあたり、マタイ福音書に記された祈り(6,9-13)に比べ、ルカ福音書の祈り(11,2-4)の方は、簡潔に「父よ」という呼びかけではじまるなど、若干短くなっていることを説明。

キリスト教の祈りのすべての神秘は、まさに神を「父」と勇気をもって呼ぶことにあると述べられた。

わたしたちは神の超越性を尊び、高く仰ぎ見るような名で神を呼ぶこともできるが、神を「父」と呼ぶことは、自分が父親から愛されていることを知る子どもが父に話しかけるような、神との信頼に満ちた関係にわたしたちを置くことになると教皇は指摘。

神の神秘は、わたしたちを常に惹き付けると共に、わたしたちを小さな存在に感じさせるが、神を父と呼ぶことで、もはや神を前にした恐れや、圧迫感、苦悩はなくなると話された。

教皇はルカ福音書の「放蕩息子のたとえ」(15,11-32)を思い起こし、イエスがそこに示す、「愛」以外の何者でもない父親像を見つめられた。

その愛にあふれた父は、傲慢な息子を罰せず、財産を分けてやるだけでなく、遠くに旅立たせることもできる父であり、その息子があらゆる体験を経て、ようやく家に戻ってきた時にも、人間的基準で裁くことなく、まず何よりも「赦し」の必要を感じ、その抱擁を通して、この息子の不在が父の愛にとってどれだけ辛いものであったかを悟らせる父であったと、教皇は語られた。

「わたしたちは決して一人ではありません。人が神から離れ、敵対し、無神論者であると言うことさえあっても、イエス・キリストの福音は、神はわたしたち無しではいられない方であるという神秘を明らかにしてくれます。」

「これが『主の祈り』のすべての祈願の中にある、『わたしたちの希望の源泉』です。わたしたちが助けを必要とする時、イエスは諦めて自分の中に閉じこもれとは言いませんでした。御父に向かって、信頼をもって願いなさいと言いました。御父はいつもわたしたちを愛のうちに見つめ、決してわたしたちを見捨てることはありません。」

このように話された教皇は、参加者と共に、信頼と希望をもって「主の祈り」を唱えられた。

 








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