2017-05-10 14:54:00

「希望の母、マリア」をテーマに、教皇一般謁見


教皇フランシスコは、バチカンで5月10日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

最近の一般謁見で「キリスト教的希望」をめぐるカテケーシス(教会の教えの解説)を続ける教皇は、この日は「希望の母」としてのマリアに注目された。

マリアは生涯の歩みで何度も闇を通り抜けたと教皇は述べ、まだ若いおとめマリアが神の子を受胎したとの知らせを天使から受け、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」と答えたことは決して容易なことではなく、それはマリアの神への従順の長い行程の始まりであったと話された。

マリアはその身に起こることを完全には理解できない時でも、すべての言葉、すべての出来事を心に留めて思いをめぐらせる、静かな女性であったと、教皇は福音書に記されたマリアの生き方を見つめられた。

そして、マリアは人生の不安を前にしてもくじけることなく、一方で、人生の宿命に対して強引に抵抗することのない、「静かに耳を傾ける女性」「幸せも苦しみも、人生をそのままに受け入れられる女性」であったと語られた。

福音書において様々な出来事が進行する中、マリアの存在は次第に隠れていくように見えるが、御子が十字架につけられたまさにその究極の時に、マリアは再び姿を表すと教皇は指摘。

イエスの受難を前にほとんどの友が怖さのあまり消え去ったその時、母たちが決して子を裏切らないように、マリアは十字架の足元で御子の最期を見守っていたと強調された。

イエスの十字架のそばにいたマリアについて、福音書は非常に簡潔で控えめに、「立っていた」(ヨハネ19,25)とだけ記している。

マリアの反応はもとより、その苦しみも一切記されていないために、その後、多くの詩人や芸術家たちが、十字架の下のマリアの姿をめぐり、創造力をかき立てることになったと教皇は話された。

マリアは「立っていた」。ここに教皇は、人生の神秘の闇に包まれながらも、神を一途に信頼する、ナザレのおとめの姿を、再び見出すことができると述べられた。

霧の中で灯され続けるろうそくのように、マリアは忠実にそこにいたが、それはマリアがその召命の最初の日に「わたしは主のはしためです」と答えた神に対する忠実であると同時に、子の受難を前にして苦しむ、母としての本能でもあったと語られた。

主の復活の光に包まれて、教会が誕生した日、わたしたちはイエスの弟子たちの共同体の中に「希望の母」としてのマリアを再び見ることができるが、その時もマリアはただそこに「いて」、ごく自然な形で皆の間に存在していると教皇は指摘された。

「マリアはわたしたちに、虚無的状況においても待つことを教え、世の悪の前に神が隠されたように見える時でも、神の神秘に常に信頼することを教えてくれる」と述べた教皇は、イエスがわたしたちに与えてくださった御母、マリアは、わたしたちが困難にある時、いつも歩みをささえてくださると説かれた。








All the contents on this site are copyrighted ©.