2017-02-19 16:05:00

「悪に対して、善をもって応える」教皇、日曜正午の祈り


教皇フランシスコは、2月19日、日曜正午の祈りをバチカン・聖ペトロ広場に集った巡礼者らと共に唱えられた。

集いの説教で教皇は、この日の福音朗読箇所、マタイ福音書5章38-48節を取り上げられた。

イエスはここで、「復讐してはならない」、「敵を愛せ」と説いている。

「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(マタイ5,38-39)。

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(同5,43-44)。

教皇はこうしたイエスの教えを、「キリスト教的な革命」を最もよく表現する箇所の一つとして示された。

「目には目を、歯には歯を」という「同害刑法」、すなわち、もたらされた被害と同等の罰を加害者に課する掟に対し、イエスはそれを上回る掟、「愛の掟」を通した真の正義への道を表したと教皇は話された。

これについて教皇は、イエスは弟子たちに「悪に耐えよ」と命じているのではなく、「悪に対して、別の悪で応えずに、善をもって対抗する」ように説いているのであり、こうすることで悪の連鎖を断ち切り、真に物事を変えるよう教えていると説明。

いわば、悪は善が不在の「虚無」であり、その虚無を別の虚無で埋めるのではなく、善をもって満たすことが必要であり、復讐は争いの解決を決してもたらさないと話された。

イエスにとって暴力の拒否は、時には正当な権利さえ放棄する行為、例えば「右の頬を打たれたら左の頬も」、「下着を取ろうとする者には、上着をも」(参考:マタイ5,39-42)与える行為にもなるが、この放棄は正義の要求に対する無視でも矛盾でもなく、むしろ、いつくしみにおいて特別な方法で表されるキリスト教的愛が、正義を最高の形で実現することを意味していると教皇は説かれた。

イエスが提示したいのは、新しい市民法ではなく、愛の掟であると述べた教皇は、隣人に対するその愛の掟は、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(同上5,44)というように、敵に対する愛をも含むと指摘。

敵を愛することは難しいことであるが、イエスのこの言葉は、敵が行なった悪の肯定ではなく、より崇高で高潔な視点、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」天の御父の眼差し(参考:同上5, 45)への招きなのであると強調された。

 








All the contents on this site are copyrighted ©.