2017-02-06 19:19:00

ユスト高山右近を福者として宣言、大阪で列福式


キリシタン大名、ユスト高山右近(1553-1615)の列福式が、2月7日、大阪でとり行われた。

右近は、摂津国の武将、高山友照の嫡男として生まれた。洗礼を受けダリヨの名を授かった父友照に導かれ、1563年、母と共に受洗、ユスト(ジュスト、「正義の人」の意)の洗礼名を授かった。

父と共に戦国の乱世を武将・大名として生きる中で、揺ぎ無い信仰の人として成長。その人徳による感化は多くの武将・大名を受洗に導いた。また高槻城下の領民の多くがキリスト教徒となった。

右近は、戦国の世の過酷な軋轢の中も、自らの身をもって宣教師と信徒たちを守った。本能寺の変の後、安土城と城下が焼失すると、安土のセミナリヨを高槻に移すなど、キリスト教の保護に尽くした。

豊臣秀吉のバテレン追放令で、棄教を迫られたが、地位と領土を捨てることと引き換えに、毅然と自らの信仰を守り抜き、流浪の身となることを選んだ。

加賀の前田氏の招きで金沢で暮らすが、徳川家康のキリシタン追放令を受け、1614年、加賀を出て、徒歩で京都へと向かい、大阪を経て、長崎からマニラに追放された。現地で盛大な歓迎を受けるも、疲労と不慣れな気候から熱病を得て、到着後44日、63歳で没した。

7日、大阪城ホールでとり行われたユスト右近の列福ミサは、教皇庁列聖省長官アンジェロ・アマート枢機卿を教皇代理として迎え、日本の司教団はもとより、駐日教皇大使ジョセフ・チェノット大司教、右近とゆかり深いフィリピン・マニラのルイス・アントニオ・タグレ枢機卿、そしてアジアを中心とした各国の司教たちの参加を得て行われた。

日本の各教区から多くの司祭が集い、ミサの司式関係者は300人以上に及んだ。

ミサはラテン語と日本語を中心に進められ、信徒の祈りは英語・タガログ語・韓国語・ベトナム語など、また説教は日本語訳を伴ったイタリア語で行われるなど、国際色豊かなものとなった。

また、カトリック系の学校の生徒と各地の小教区の信徒からなる大合唱団と、学生たちのオーケストラの調べがミサを荘厳に彩った。

列福の儀式では、日本カトリック司教協議会の会長、岡田武夫・東京大司教が、教皇代理アマート枢機卿に、ユスト高山右近の列福を願い出た。

これに続き、右近の列福申請代理人(ポストゥラトーレ)アントン・ヴィットヴェル師が、ユスト高山右近のキリスト者としての生涯を紹介。

アマート枢機卿はこれを受け、ユスト高山右近を福者として宣言する教皇フランシスコの書簡を厳かに読み上げた。

これと共に、十字架を手にし、神の光に内心を照らされるかのように座する、ユスト高山右近を描いた画が除幕された。

およそ1万人の参加者らは、信仰の人、ユスト高山右近の生涯を改めて振り返り、大きな感動と感謝をもってその列福を祝った。








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