2017-01-18 18:54:00

一般謁見: 教皇フランシスコ「人は危険に遭うとき生命の主である神の助けの必要性に目覚めるものだ」


1月18日恒例水曜教皇一般謁見は記録的な寒波を避けて、パウロ6世謁見ホールで執り行われた。

教皇フランシスコはこの日のカテケシス(教会の教えの解説)で旧約の預言者ヨナのエピソードを例にとりながら、人はいつでも神の助けを必要としていることを強調された。

「親愛なる兄弟姉妹の皆さん、旧約聖書の中に出てくる預言者ヨナの話を聞いたことがあるでしょう。海中に投げ込まれたヨナは3日3晩大魚の腹の中に留まったという話です。大変変わった預言者ではありました。彼の体験したエピソードからわたしたちは多くのことを学び取ることができます。今日は希望と祈りとの関係について少し考察してみましょう。希望と祈りの間には、神は必ず赦してくださるという神の無限のあわれみへの信頼があります。ヨナは神から託された人々の救いに関する使命を出来ることなら避けようと試みます。しかし、自身が生命に危険に晒されると,救われたいとの希望がおのずから祈りという形で表される事実にきづかされるのです。

主がこの希望と祈りの間にある強い絆をわたしたちにも理解させてくださいますように。祈りはわたしたちを希望のうちに前進させてくれます。先行きが暗くなればなるほど祈りがますます必要になってきます。そして同時にそこにはますます希望が輝くのです。

預言者ヨナは神の呼びかけに一応答え、出て行きます。しかしその底には逃げ出したいという彼の本心が隠されています。神はヨナを、今日のイラクにあったニニベという辺境の町に派遣します。人々に回心するよう説得するためです。当時のイスラエル人ヨナにとってニニベの町はイスラエルを滅ぼそうとする敵方の勢力の象徴でもありました。 ですから彼にとっては回心によって救われるよりも滅ぼしてしまったほうがよいような存在でもあったわけです。神がヨナをニニベに回心を促すために遣わすということは、人々をなんとかして赦したい、救いたいという神のやさしさとあわれみそのものであることをヨナは理解します。かえってイスラエルを滅ぼそうとしている ニニベなど救われないほうがいいと心の底では思っているヨナですから、神の命令から逃れようとします。実際方向を変え逃げ出します。ニニベにではなく反対方向に向かって海路逃げ出します。その航海の途中異教徒であった船員たちと出会います。大嵐に遭い難破の危険に遭遇すると船員たちは皆、それぞれ自分の信じるそれぞれの神々に保護を祈りだします。そしてヨナにも彼の神に助けを祈るよう勧めます。

生命の危険に瀕した船員たちの反応はごく自然な態度でした。人は死の危険に際して、自分自身の非力さ、誰かからの助けが必要であることに気づき救いの必要性をも実感します。死に対する本能的ともいえる恐怖心は、生命の主である神に希望を置く必要性を明示します。

差し迫る危険を前にして希望は祈りへと変じて行きます。

苦しい時の神だのみなどと言って、ただ必要なときだけ神に助けを乞うなどとは余りにも自分勝手だという人がいるかも知れません。しかし神はわたしたちの弱さをわたしたち自身以上にご存知です。そしてわたしたちはしばしば助けが本当に必要なときにだけ神のことを思い出すのだということをも神はご存知です。神はよい父親のように微笑みながらも何とかしてくれるでしょう。

預言者ヨナは他の人々を救うために荒海に身を投げます。こうして嵐はおさまります。迫り来る死は、ヨナを祈りへと導き自分自身を犠牲にして人々を助けるという本来の自分の使命を実行させました。こうして預言者ヨナは人々を真の神への賛美に導いたのです。

死を逃れるために人を祈りへと導いた希望は、嵐からの救済という希望してたこと以上の現実の力を彼らに現したのです。嵐からの生還だけでなくそれ以上に天と地の主である唯一の真の神を皆に知らしめたのです。








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