2017-01-01 18:17:00

2017年元日:教皇「わたしたちを孤児性から解放する、神の母の眼差し」


2017年の元日を迎え、教皇フランシスコは「神の母聖マリア」の大祝日のミサをバチカンの聖ペトロ大聖堂で司式された。

カトリック教会の暦は、1年の最初の日を神の母聖マリアに捧げると共に、「世界平和の日」を記念する。今年で第50回を迎えた「世界平和の日」のテーマは、「非暴力、平和を実現するための政治体制」。

教皇はミサの中で、神の聖なる母を年の初めに記念する意味について説教を行われた。

2017年度「神の母聖マリア」大祝日における教皇フランシスコのミサの説教は以下のとおり。

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「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」(ルカ 2,19)。

福音書記者ルカは、当時自らに起きた出来事をすべて受け入れていたマリアの態度を、このように表現しています。それを理解しようと努めるのでも、状況を支配しようとするのでもなく、マリアは、神が民の生活の中にお入りになるための通り道を、自分の心の中に守り抜くことを知っていました。マリアはその胎の中に神の御子の鼓動を聞くことを学び、生涯を通して、歴史の中で息づく神の鼓動を聞くことを知ったのです。マリアは母であることを学び、イエスは家庭生活のその期間に、素晴らしい体験と共に、神の御子であるという自覚を養うことができました。マリアにおいて、永遠の御言葉は、人となっただけでなく、神の母性的な優しさをも学んだのです。マリアによって、神である幼子は、約束の民の熱望や苦悩、喜びや希望に耳を傾けることを学びました。幼子はマリアと共に、ご自分が、神に忠実な聖なる民のための、神の御子であることを発見したのです。

おとめマリアの中に、おしゃべりでも目立ちたがりでもない、多くを語らずとも、思慮深い眼差しを持った女性の姿が浮かび上がってきます。マリアはその眼差しを持って、御子の命と、その使命、そして御子が愛するすべてのことを守りました。マリアは最初のキリスト教共同体の芽生えを見守り、こうして多くの人々の母であることを学びました。マリアは、様々な状況に接しながら、そこに希望の種を蒔きました。彼女の子らが心に背負う十字架に静かに寄添いました。多くの崇敬、たくさんの巡礼地や、目立たない場所にある無数の聖堂、そして数多い聖母画が、この真実を思い出させます。マリアは、わたしたちが困難にある時に包み込む、お母さんの温かさを与えてくれます。その母としての温かさは、御子によって始まった優しさの革命を、誰もが消すことがないように守ります。母のいるところには、優しさがあります。マリアはその母性をもって、謙遜と優しさが弱い人たちの徳ではなく、強い人たちの徳であることを教え、自分を重要と感じるために他人をひどく扱う必要はないことを教えてくれます。そして、神に忠実な聖なる民は、マリアを「神の聖なる母」として認め、このように呼んできました。

神の母、わたしたちの母として、マリアの母性を一年の始まりに記念することは、わたしたちの毎日を見守る一つの確信を思い出させてくれます。それはわたしたちは一人の母をもった民であり、わたしたちは孤児ではないということです。

母たちは、わたしたちの個人主義的、利己主義的傾向や、無関心や自分を閉じる態度に対する、最も強力な解毒剤です。母たちのいない社会は、冷たいだけでなく、心を失った社会、家族の味わいを失った社会と言えましょう。母親たちの欠けた社会、それは情けがなく、損得だけを追求する社会です。なぜなら、母たちは、最悪の時に至っても、優しさや、無条件の献身、希望の力を証しすることができるからです。わたしは、受刑者や、重病者、薬物中毒者の母親たちから多くを学びました。母たちは、暑さや寒さ、雨や干ばつの時も決して諦めることなく、子どもたちのために最上のことをするために戦い続けます。母たちは難民キャンプ、あるいは戦争の只中でさえも、ためらうことなく子どもたちの苦しみを抱きしめ、支えることができます。母たちは子どもたちを失わないように文字通り命を与えます。母たちのいるところに、一致があり、拠り所、子としての拠り所があるのです。

マリアの母としての顔の中に、教会の母としての顔の中に、そしてわたしたちの母たちの顔の中に、神の優しさを思い起こしながら、新しい年を始めることは、わたしたちを蝕む「精神的孤児」の病から守ってくれるでしょう。母の不在、神の優しさの欠如を感じる時、魂は孤児のように生きることになります。この精神的孤児の状態は、わたしたちの中で家族や、民族、土地、わたしたちの神への帰属感が消えた時に体験するものです。精神的孤児の状態は、自分と自分の利益しか顧みないナルシスト的な心の中に生まれます。そして、命は贈り物であり、他の人たちのお陰でそれを得ていること、それをこの共通の家である地球において分かち合うよう招かれていることを忘れた時に、それはますます広がっていくのです。

この精神的孤児性は、カインに「わたしは弟の番人でしょうか」(創世記 4,9)と言わせることになりました。それはまるで、彼はわたしと関係ない、わたしは彼を知らないと宣言することでした。このような精神的孤児の態度は、魂を静かにすり減らし、蝕む病です。そして、誰もわたしたちに関係なく、わたしたちも誰とも関係ないという段階に至るまで、少しずつわたしたちを荒廃させていくのです。それは大地をも荒廃させます。それはわたしに関係ないからです。それは他の人や神との関係さえも荒廃させるでしょう。なぜなら自分と関係ないからです。最後には、自分たち自身をも荒廃させるでしょう。なぜなら、わたしたちが誰であるかも、わたしたちが神からいただいた名前さえ忘れてしまうからです。わたしたちを結ぶ絆の喪失、それはわたしたちのばらばらに分裂した文化の典型であり、これが精神の孤児性を増し、大きな虚無感と孤独を育てていくのです。物理的な接触の欠如は、わたしたちの心を腐食し、優しさや、驚き、憐れみ、同情を感じる力を失わせます。精神の孤児性は、子、孫、親、祖父母、友だち、信者であるとはどういうことかを忘れさせてしまいます。遊びや、歌や、笑い、休息、無償性の価値をも忘れさせるのです。

神の聖なる母を祝うことは、わたしたちに民であること、誰に帰属しているかを思いこさせ、わたしたちの顔に再び微笑を取り戻させます。わたしたちは、一つの共同体、家族の中に、消費し、消費させられるための存在としてではなく、人間としての成長を可能にしてくれる、「環境」と「暖かさ」を見出すのです。神の聖なる母を祝うことは、わたしたちが交換可能な商品ではないこと、末端にいて情報を与えられるだけの存在ではないことを思い出させます。わたしたちは神の子、神の家族、神の民なのです。神の聖なる母を祝うことは、わたしたちが帰属や、根付き、家を感じられる共通の空間をわたしたちの街や共同体の中に作り育て、それによってわたしたちが一致し、支えられるよう招くのです。

イエス・キリストは、十字架上での最も偉大な自己犠牲の時、ご自分のためには何一つ残さず、命と共に、ご自分のお母様までを差し出されました。イエスはマリアに言われました。ご覧なさい、あなたの子です。ご覧なさい、あなたの子たちですと。そして、わたしたちはマリアを自分たちの家に、家庭に、共同体に、国に引き取りたいと思います。マリアの母としての眼差しに出会いたいと思います。この眼差しこそが、わたしたちを孤児性から解き放ち、わたしたちが兄弟同士であることを思い出させるのです。わたしはあなたに、あなたはわたしに結ばれ、わたしたちは同じ肉の者です。その眼差しは、マリアがしたのと同じ優しさをもって命の世話をし、希望と、帰属感、兄弟愛の種を蒔くよう、わたしたちに教えます。神の聖なる母を祝うことは、わたしたちに母があることを思い出させます。わたしたちは孤児ではありません。わたしたちには母がいるのです。

一緒にこの真理を宣言しましょう。エフェソの信者たちがしたように、わたしたちも3回その名を呼び称えましょう。神の聖なる母、神の聖なる母、神の聖なる母と。 








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