2016-12-29 15:04:00

教皇「神に向かって嘆くことも、一つの祈りの形」一般謁見で


教皇フランシスコは、12月28日、バチカンのパウロ6世ホールで水曜恒例の一般謁見を行われた。

降誕祭後も続く喜ばしい雰囲気の中で行われたこの謁見には、家族連れの巡礼者らが多く訪れた。後半、舞台上ではサーカス団の演技が披露され、教皇も参加者らも温かい拍手をおくっていた。

謁見中の教皇による「キリスト教的希望」をめぐるカテケーシス(教会の教えの解説)では、「信仰と希望における父」として、旧約聖書のアブラム(アブラハム)の姿がクローズアップされた。

高齢のアブラムと妻には子どもがなかったが、神は彼に子どもを約束され、アブラムは信仰をもってその一見不可能と思われることに希望を見出した、と教皇は説明。

「希望は新たな地平を開き、想像もつかないことも夢見させることができる。希望は不確かな未来の闇の中に、歩むための光をもたらす」と述べられた。

しかし、アブラムの歩みは困難なものであり、失望や、老いや疲れを感じる中で、子孫を持たずに死ぬことを神に嘆いたりしたこともあったが、この神に嘆くということ自体が一つの信仰の形、一つの祈りであると説かれた。

すべてに関わらずアブラムは神を信じ続け、何かが起きることに希望を持ち続けた。そうでなくては、なぜ神に訴え、その約束を思い出させるだろうかと教皇は述べ、「信仰はただ黙って全部受け入れるものではない、信仰とは神との格闘でもある」と話された。

アブラムが自分に子孫ができないことを嘆いた時、主は彼を外に連れ出して「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる」(創世記15,5)と言われた。

「神はアブハムを天幕から外に、すなわち狭い視界から現実の中に連れ出し、星を示された。信じるためには、信仰の目で見ることを学ばねばならない。それは誰もが見ることができる星空だったが、アブラムにとっては神の忠実のしるしとなった」と教皇は語られた。

アブラムのエピソードをずべての人が歩むべき信仰と希望の歩みとして示された教皇は、「希望は決して失望させない」と強調された。

 








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