2016-11-16 15:05:00

「人生の本質の発見を手伝う」教皇一般謁見


教皇フランシスコは、11月16日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

青空に恵まれたこの日、バチカンの聖ペトロ広場は世界各国の大勢の巡礼者たちでいっぱいとなった。

「いつくしみの聖年」開催中の最後の一般謁見で、教皇は「神のいつくしみ」をめぐるカテケーシス(教会の教えの解説)として、「『迷惑な人々』に対して忍耐する」をテーマに講話された。

教皇は、誰の周りにも、愚痴を言う人、おしゃべりな人、要求の多い人、自慢する人など、「迷惑な人々」がいるだろうと述べつつ、これらの人々にどう接したらよいのかを考えると共に、また自分も他人に迷惑をかけていないかを反省するよう勧められた。

聖書の中には、神ご自身が民の嘆きをいつくしみをもって忍耐される様子が記されていると教皇は指摘。

例えば、「出エジプト記」で、民はエジプトでの隷属状態を嘆き、神は彼らを解放される。次に民は砂漠で食べる物がないと嘆き、神はうずらやマンナを与えられる。これらの神の業にも関わらず、民の嘆きは収まることなく、モーセは神と民との仲介役を務めるが、モーセ自身もまた神にとっては要求の多い存在だったかもしれないと話された。

しかし、どのような時にも忍耐を保ち、モーセと民に信仰の本質を教えられた神の愛といつくしみを教皇は振り返られた。

「わたしたちも他人にめんどうをかけていないだろうか」と教皇は問い、他人の欠点を指摘することはたやすいが、他人の立場になって見ることも重要と述べられた。

「イエスもまた、3年間の公生活でどれだけの忍耐を持たれただろうか」と、教皇はその一例として、ヤコブとヨハネの母がイエスのところへ来て、「王座にお着きになる時、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」(マタイ20,21)と願ったエピソードを引用。

イエスはそこで、ご自分の王国は、地上の王国のような権力や栄光に属しておらず、むしろ人々への奉仕と自己犠牲のためのものであると、その本質を教えられたと話された。

教皇は、イエスの態度に、信仰の本質を説くと同時に、罪びとを諭し、ものごとを知らない人々に教えるという、いつくしみの業を見出された。

人生の本質の発見を手伝うことは、人生の意味を知る喜びを分かち合うという、素晴らしく重要なことと教皇は強調。

表層的な考えしか持てなかったり、ありきたりのことしか考えられない人は、ただ単に自分に何か違う世界、本当に大切なものを教えてくれる人に出会わなかっただけかもしれない、と述べた教皇は、特に方向性を失い、はかないものに満足を見出そうとする現代の傾向において、本質を見つめるよう助けることは大きな意味を持つと話された。

「主がわたしたちに何を望まれるかを発見し、それに応えることができるように教えることは、召命のために成長し、真の喜びを見出す道を教えること」

「助言し、警告し、教えることは、自分が他人より優れた者であると感じるためではない。むしろそれは、他人に勧めていることに対して、何よりも自分自身の言動一致を問うことになる」

教皇はこのように話し、「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気がつかないのか」(ルカ6,41)というイエスの言葉を示された。








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