2016-10-26 16:25:00

教皇「移民問題に対し、利己主義ではなく連帯を」一般謁見


教皇フランシスコは、バチカンで10月26日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、教皇は神のいつくしみをテーマに、「お前たちは、わたしが旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せてくれた」(マタイ25,35-36)というイエスの言葉を考察された。

経済危機や、武力紛争、気候変動などによって多くの人が移民としての選択を迫られる今日、外国人に対する事業はことのほか重要になっていると教皇は強調。

移民は新しい現象ではなく、人類の歴史の流れに属するものであり、この現象を現代のものとしてのみ考えることは歴史的記憶の欠如であると話された。

教皇は聖書の中に移民についての多くの記述を指摘。アブラハムが神から「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」(創世記12,1)と言われ旅立ったことにはじめ、イスラエルの民が隷属下にあったエジプトから脱出し、約束の地を目指し砂漠を旅したこと、またマリアとヨセフ、幼子イエスの聖家族がヘロデの迫害を逃れてエジプトに避難したことなどを挙げられた。

人類の歴史は移民の歴史でもあると教皇は述べつつ、その歴史の中で社会的緊張と同時に、大きな連帯も見られたと話された。

経済危機を背景に、移民に対する閉鎖的な態度、歓迎的でない状況が見られる今日の風潮を教皇は懸念。難民・移民に対する多くの人々の静かで寛大な支援が、本能的な利己主義の声にかき消されることを心配された。

しかし、移民に対する拒絶的態度は、人身売買の犯罪を助長するのみと警告しつつ、教皇は連帯こそを唯一の解決の道として示された。

そして、米国に移住した人々を助けた聖フランチェスカ・カブリーニを模範としてを思いこされた教皇は、今日の信者たちにも、移民たちに対しいつくしみを証しするよう励まされた。

教皇はまた、数日前にローマで起きた一つのエピソードとして、聖年の聖なる門をくぐるために裸足で聖ペトロ大聖堂に向かっていた移民の男性の話を紹介。この男性は、一人のアルメニア人女性に助けられ、共にタクシーで大聖堂に向かうことができたが、その汚れた服装のために最初は乗車を拒否しようとしたタクシーの運転手も、この男性の話を聞くうちに自分の態度を改めたといういきさつを語られた。

また、イエスが言う「裸であるときに服を着せる」ということは、失われた尊厳を取り戻させるということと教皇は説明。

人身売買の犠牲となった女性や子どもたちもまた、尊厳を奪われているという意味で一種の「裸」の状態であることを忘れてはならないと述べられた。

自分自身の中に閉じこもり、他人に無関心になるという罠に陥らないようにと注意を促された教皇は、わたしたちが他人に自分を開いただけ、人生は豊かになり、社会は平和を、人は尊厳を取り戻すことができると説かれた。

 








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