2016-10-19 16:20:00

「飢える人に食べさせ、渇く人に飲ませる」教皇一般謁見


教皇フランシスコは、バチカンで10月19日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

謁見中、教皇は「神のいつくしみ」をめぐるカテケーシス(教会の教えの解説)として、「飢える人に食べさせ、渇く人に飲ませる」をテーマに講話された。

豊かで快適な生活は、人々を自分の中に閉じこもらせ、他人の困窮に無関心にさせてしまうが、これに対し、わたしたちは現実を直視し、受け入れ、急を要する状況と対峙する必要があると教皇は話された。

そして、いつくしみの業の中でも、特に、食糧や水の不足に苦しむ人々に手を差し伸べることの大切さを説かれた。

飢えに苦しむ人々のニュースを前に、寛大な寄付を行なうことは、多くの人の苦しみを和らげることに役立つ。ただ、こうした形の慈愛の業は重要であるが、直接わたしたちが人々と関わることはないと教皇は指摘。

一方、わたしたちが道で助けを必要とする人とすれ違うならば、状況は大きく変り、自分はその人と関わる第一人者となり、もはやその人と自分との間には距離がなくなる。抽象的な貧困は、わたしたちを考えさせるだけだが、実際に貧しい人と出会う時、その貧困はわたしたちに直接問いかけるものとなると話された。

こうした時、わたしたちの反応はどうだろうか、目をそらして行ってしまうのか、あるいは立ち止まり話しかけ、その人の置かれた状況に関心を持つだろうか、と教皇は問われた。

その人は食べるものに困っているのかもしれない。わたしたちはいったい何度「主の祈り」の中で、「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください」と祈ってきたことだろうかと話された。

教皇は、神は「詩編」の中で「すべて肉なる者に糧を与える方」(136,25)と表現されていると解説。

飢えは過酷であり、戦争や飢饉を体験した人はそれを知っているが、今日の時代にも、豊かさや無駄遣いと隣合わせで、その飢えの体験が現実に繰り返されていることを忘れてはならないとアピールされた。

「自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか…行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」という「ヤコブの手紙」(2,14-17)の言葉を引用しつつ、教皇は、わたしたちの助け、言葉、働きかけを必要としている貧しい人々の存在に気付き、これらの人々を助けることに、わたしたち皆が関与し、呼ばれていることを知るようにと強調。

また、前教皇ベネディクト16世の回勅「真理に根差した愛」における、「飢えた人に食べる物を差し出すことは、普遍の教会にとって、一つの絶対的な倫理です」という教えを紹介された。

「わたしが命のパンである」(ヨハネ6,35)、「渇いている人は誰でも、わたしのところに来て飲みなさい」(ヨハネ7,37)と言われるイエスは、飢える人に食べさせ、渇く人に飲ませることを通して、わたしたちがいつくしみの神との絆を体験するよう招いていると、教皇は話された。

 








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