2016-09-26 18:21:00

「自分のためだけに生きる者は歴史を作れない」教皇、カテキスタたちに


「いつくしみの聖年」の公式行事として、9月25日、バチカンで「カテキスタの聖年」が祝われた。

カテキスタとは、カトリック教会の教えの基礎となるもの(要理)の教育に携わる人。

9月23日(金)から始まったカテキスタを対象とした聖年行事で、世界中から集った参加者らはローマ市内の各教会での祈りや観想、バチカンの聖ペトロ大聖堂の聖年の扉に向かう巡礼などを行なった。

25日(日)、カテキスタたちは、教皇フランシスコが司式するミサに参列した。

ミサの説教で、教皇はカテキスタらに、信仰の基本を伝える上で、「主は復活された」という教えを第一に据えるよう、その努力を惜しまないで欲しいと願われた。

主の復活ほど、重要、堅固で、生きた教えはないと教皇は強調。この中心的教えに結ばれているならば、信仰のあらゆる内容は素晴らしいものとなるが、この教えと離れるならば、それらは意味と力を失ってしまうと話された。

わたしたちは常に主の愛の知らせを生き、それを告げるように招かれていると述べた教皇は、それは「イエスはそのままのあなたを愛される」「主の愛はあなたを決して失望させない」という知らせであると説かれた。

「主は概念ではなく、生きたお方であり、そのメッセージは真実で単純な証し、対話や受け入れの態度を通して伝えられる」「希望の神を伝えるには、今日ここで愛の福音を実際に生きること」と、教皇はこのように述べられた。

教皇はこの日のミサの福音朗読箇所、ルカ福音書の「金持ちとラザロ」のたとえ(16,19-31 )を観想。

このたとえ話の中の金持ちは、彼の家の門前に横たわるラザロという貧しい人を気にすることすらなかった。教皇は、この金持ちは悪い人だったわけではないが、彼の問題は世の虚飾によって魂を無力化され、宴会やぜいたくな衣の先にある世界、ラザロがいる扉の外の世界を見ることができなかったことにあると指摘された。

これに対して、主は世間から見捨てられ、疎外された人をご覧になると教皇は述べ、イエスのすべてのたとえの登場人物の中で、唯一名前で呼ばれる「ラザロ」は、「神はお助けになる」という意味を持っていると説明された。

「神は貧しいラザロを忘れることはなく、死後のラザロをアブラハムと共に天の御国の宴席に迎えたが、一方でこの金持ちは名前さえ持たず、その人生は忘れられてしまった。なぜなら自分のためだけに生きる者は歴史を作れないからである」と教皇は話された。

「イエスの希望を告げる者は、喜びを帯び、遠くを見る人である。なぜなら彼は悪や問題を越えたその先を見つめることができるからである。同時にその人は近くをよく見ることができる人である。なぜなら隣人の必要とするものに注意を払うことができるからである」

このように述べた教皇は、主の招きに応え、わたしたちが出会う多くのラザロたちを助けに行こうと、カテキスタたちに呼びかけられた。

 








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