2016-08-21 18:55:00

教皇、トルコでの結婚披露宴テロ事件に、暴力行為非難


教皇フランシスコは、バチカンで8月21日、日曜正午の祈りを巡礼者と共に唱えられた。

集いの席で教皇は、8月20日トルコ南東部ガズィアンテプでの結婚披露宴で起きたテロ事件に言及。多くの死傷者を出したこの事件を受け、あらゆる暴力行為を非難された。

教皇は、犠牲者と負傷者たちのために祈ると共に、すべての人に平和の賜物を願い求めるよう、信者たちに呼びかけられた。

この日、教皇は祈りの前の説教で、ルカ福音書13章の「狭い戸口から入るように努めなさい」というイエスの言葉を取り上げ、次のように話された。

「今日のミサの福音朗読で、キリストは救いについての考察を促しています。

ルカ福音史家は、イエスはエルサレムに向かう旅の途中であったと記しています。そこで一人の人がイエスに、「救われる者は少ないのでしょうか」と尋ねます。

イエスはこの質問には直接に答えることはせず、観点を別の方向に向けて言います。「狭い門から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」。イエスは門の象徴を用いることによって、救われる人の数を問題にするのではなく、皆がどの道を通れば救いに到れるかを理解するよう導くのです。数は問題ではありません。

イエスは、門を通って進みなさいと言われます。しかしこの門は一体どこにあるのでしょう。どんな門でしょうか。誰がこの門なのでしょうか。イエスご自身が、救いに到る門なのです。ヨハネによる福音の中で、イエスご自身が「わたしは門である」と言っています。イエスこそが、わたしたちを救いに導くのです。

しかし、同時に、イエスはこの門は狭いとも言われます。なぜ狭いのでしょうか。それはわたしたちが傲慢や欺瞞、さらに様々な欲望で膨れ上がり、そのために通り抜けることができないからです。神以外のすべてから解放され、そぎ落とされていなければ通り抜けられないほど、それは狭い門なのです。

自分は罪びとであり、神の赦しと慈しみが必要だという自覚を持って、自分自身を脱ぎ捨て、身軽になった時にはじめて、この門を通り抜けることができるのです。しかも、この救いの門は、誰のためにも大きく開かれています。神のいつくしみの門は、すべての人々にいつも開かれているのです。このことを決して忘れないようにしましょう。自分自身を捨て去り、身軽になって喜んでこの門をくぐり、神の愛の世界に入りましょう。」

 








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