2016-06-03 14:11:00

イエスの聖心の大祝日:教皇、司祭たちとミサ「善き羊飼いの心はいつくしみそのもの」


典礼暦で「イエスの聖心」の大祝日を迎えた6月3日、バチカンで「司祭たちの聖年」を祝うミサが、教皇フランシスコと司祭らによって捧げられた。

「イエスの聖心(みこころ)」の日には、カトリック教会の「世界司祭の聖化のための祈願日」が記念される。「いつくしみの聖年」の公式行事として「司祭たちの聖年」が、6月1日から同日まで3日間にわたり行われた。

「司祭たちの聖年」の締めくくりとなるこのミサは、教皇と世界各国の司祭らの共同司式でとり行われた。

ミサの中で、教皇は「イエスの聖心」を祝うこの日、2つの心、「善き羊飼いであるイエスの心」と「わたしたち司牧者の心」を見つめるよう司祭らを招かれた。

「善き羊飼いの心」は、いつくしみを持つ心ではなく、いつくしみそのものであると教皇は強調。

その心は御父の愛で輝き、わたしたちはそこで、自分たちの限界や欠点や罪にも関わらず、ありのままの姿で受け入れられ、理解され、愛されていると確信することができると話された。

また、善き羊飼いの心は、その愛に限界も、疲れも、諦めもないことを教え、そこには限りない献身、誠実で温和な愛の源泉を見ることができると述べられた。

このようなイエスの聖心を前に、わたしたち司祭は、司牧者としての自分の心がどこに向いているかを自問しなければならないと教皇は説き、「あなたの宝のあるところに、あなたの心もある」(マタイ6,21)というイエスの言葉を示された。

イエスの聖なる心にとって、その宝とは、御父とわたしたちだけであったように、キリストの羊飼いであるわたしたちの心も、だだ神と人々に向いていなくてはならないと教皇は話された。

司祭たちの心を、善き羊飼いイエスの愛に燃え立たせるための3つの「行動」として、教皇は「探す」「受容する」「喜ぶ」を挙げられた。

神ご自身が「見失った一匹を見つけ出すまで探し回る」(ルカ 15,4)ように、わたしたちもまた、危険を恐れず、問題を先送りすることなく、時間を惜しまず迷った羊を探し、羊を見つけ出した時には、苦労も忘れて、大喜びで肩に担いで帰らなくてはならないと教皇は説かれた。

次いで「受容する」ことについて教皇は、「キリストはご自分の羊を愛し、知っており、知らない羊は一匹もいない (ヨハネ10,11-14)。羊の群れはキリストにとって、家族であり、命である。キリストは羊から恐れられる頭(かしら)ではなく、羊と共に歩み、羊たちを名前で呼ぶ方である(同10,3-4)。そして囲いに入っていないほかの羊も導きたいと願っている(同 10,16)」と指摘。

「キリストの司祭たちもまた、誰一人、自分の心と祈りと微笑みから排除してはならない」「司祭とは受け入れることを知る人である」と述べられた。

さらに、善き羊飼いイエスの喜びは自分のためのものではなく、「人々のための、人々と共にある喜び、愛から来る真の喜び」であると説く教皇は、これを司祭の喜びとするようにと呼びかけられた。

教皇は、司祭たちの毎日の隠れた奉仕は神だけがご存知であると述べ、イエスと一致して自分の人生を捧げる司祭たちに深い感謝を表された。

 








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