2016-05-25 16:47:00

気を落とさずに絶えず祈ることの大切さ、教皇一般謁見


教皇フランシスコは、バチカンで5月25日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、教皇は「いつくしみの源泉としての祈り」をテーマに、ルカ福音書の「やもめと裁判官」のたとえ(18,1-8)を取り上げられた。

イエスはこのたとえ話を通して「気を落とさずに絶えず祈る」(同18,1)ことを教えておられ、その祈りとは時どき気が向いた時にする程度の祈りではないと教皇は話された。

このたとえ話には、一人の裁判官が登場する。裁判官は権威ある存在であり、聖書の伝統においては、神を畏れる人であることが望まれるが、この裁判官はそれとは反対に「神を畏れず、人を人とも思わない」(同18,2)人物であった。

この裁判官に一人のやもめが裁きを行うよう頼んだ。やもめはみなしごや異邦人と並んで、社会の中で最も弱い立場と見なされていた。

裁判官は取り合おうとはしなかったため、やもめは唯一の手段に訴えた。それは、裁判官のところに行っては、裁きを行なうよう繰り返し言い続けることであった。

まさにこのやもめの忍耐強い働きかけによって、裁判官はその願いを聞き入れることになった。しかし、それはいつくしみの心に動かされたためではなく、やもめが「うるさくてかなわない」(同18,5)からであった。

教皇は、このたとえからイエスが導く2つの結論を指摘。不正な裁判官がやもめの辛抱強い訴えを聞き入れたのだから、まして神は「昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行なわないはずがない」(同18,7)ということ、そして、神は「彼らをいつまでもほおっておかれることはなく」(同18,7)、「速やかに裁いてくださる」(同18,8)ということを示された。

疲れや、失望、祈りは無駄なのではないかという思いをわたしたちは抱くことがあるが、「神はわたしたちの望む時や方法とは違っても、常にその子らの願いを聞き入れてくださる」と、イエスは保証していると話された。

「祈りは魔法の杖ではない」と教皇は注意を促されながら、祈りとは、たとえわたしたちが神の御旨を理解できない時でも、「神への信仰を保つことを助けてくれるもの」と説かれた。

教皇は、福音書の中でイエスご自身が神によく祈っていることを指摘しつつ、特にイエスのゲツセマネでの祈りに注目。

深い苦しみの中でイエスは御父に、できることなら受難の苦い杯を過ぎ去らせて欲しいと祈る。しかし、イエスのその祈りは御父への信頼の方が勝るものであり、イエスは「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」(マタイ26,39)と完全に御父に自分を委ねたことを思い起こされた。

教皇は、イエスの祈りの目的がここで二次的なものへと変化し、御父との関係が最も大切なものとして浮かび上がってくると説明。

「祈りは望みを変容し、それを神の御旨に沿うものとする。なぜなら、祈る者が望むことは、何よりも神との一致だからである」と話された。

「祈りが報いられない時でも、祈りを諦めてはいけない」と説く教皇は、「祈りこそが信仰を保たせるのであり、祈りなしでは信仰はぐらつくものとなる」と強調された。








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