2016-05-18 16:40:00

「貧しい人を無視することは、神をさげすむこと」教皇、一般謁見で


教皇フランシスコは、バチカンで5月18日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、教皇は「貧しさといつくしみ」をテーマに、ルカ福音書の「金持ちとラザロ」のたとえ(16,19-31)を考察された。

このたとえには、一人の「金持ち」と「ラザロ」という貧しい人が登場する。教皇は、2本の並行する線路をたどるような、対照的な2人の生活、交わることのないその人生に注目された。

金持ちの家の扉は、常に貧しいラザロには閉ざされていた。ラザロは門前に横たわり、金持ちの食卓のわずかな残り物で空腹を満たすことができるならばと思っていた。金持ちは贅沢な服で身を包んでいたのに対し、ラザロはできもので覆われていた。金持ちは毎日贅沢に遊び暮らしていたが、ラザロは空腹のうちに死んでしまった。

教皇は、ラザロはすべての時代の貧しい人々の沈黙の叫びと、豊かさと資源がごく一部の人たちの手に握られているという世界の矛盾を象徴していると話された。

やがて金持ちも死んで葬られた。たとえ話の後半は、ラザロと金持ちの死後が語られる。ここでは2人の状況は逆転する。貧しいラザロは天使たちによって天にいるアブラハムのもとに連れて行かれた。これに対し、金持ちは陰府(よみ)で苦悶していた。

金持ちは目を上げ、はるか彼方のアブラハムに向かって「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください」と大声で言った。そして、ラザロをよこして、自分の舌を水に浸した指先で冷やして欲しいと願った。

教皇は、金持ちがかつては見ようともしなかったラザロに対し、今は助けを求めていることに加え、アブラハムを「父」と呼び、自分が神の民に属していることを主張しながらも、生前は豪奢と浪費を尽くして自分中心に暮らし、神に思いを向けたことなどなかったと指摘。「貧しい人を無視することは、神をさげすむこと」と話された。

この金持ちには名前が無いが、一方貧しい人は「ラザロ」という名を持ち、このたとえ話では5回もその名が繰り返されている。教皇は「ラザロ」という名は「神は助ける」という意味を持つと紹介しつつ、門前にいるラザロは金持ちに神を思い出させる生きた存在であったが、彼は神の呼びかけを受け入れなかったと説かれた。

そして、金持ちが罪に定められたのはその豊かさのためではなく、ラザロに対して同情し、手を差し伸べることができなかったためであると述べられた。

ラザロが家の門前にいた間は、金持ちには救いのチャンスがあったが、2人とも死んでしまった今では、もはや取り返しがつかない。金持ちと貧しいラザロを隔てていた扉は、今ではアブラハムの言うように「大きな淵」となってしまったと教皇は話された。

教皇はこのたとえ話を通して、「神のわたしたちに対するいつくしみは、わたしたちの隣人に対するいつくしみと結びついている。心の扉を貧しい人に開かないならば、その扉は神にも閉じられたままとなる」と説かれた。

たとえ話の最後の方で、金持ちは自分の兄弟たちが同じ目にあわないように、ラザロを遣わして、彼らに言い聞かせるようアブラハムに願うが、アブラハムは「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる」と答えた。

教皇は、回心のためには特別な出来事は必要なく、神と隣人を愛するように招く神のみことばに心を開くことが大切であり、金持ちは神のみことばを知っていたが、それに耳を傾けなかったために、貧しい人に対して目を開き、憐れみを感じることができなかったと述べられた。

わたしたちが日常生活で出会う貧しい人々の中にイエスとの出会いがあると述べた教皇は、「わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25,40)というイエスの言葉を思い起こされた。

 

 








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