2016-04-20 13:52:00

「罪に対して妥協せず、罪びとにはいつくしみをもって寄添う」教皇一般謁見


教皇フランシスコは、バチカンで4月20日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で教皇は、福音書に見る神のいつくしみの考察として、ルカ福音書のイエスが罪深い女を赦すエピソード(7,36-50)を取り上げられた。

イエスがシモンというファリサイ派の家に招かれ、食事の席に着いていると、その罪深さで町中に知られる一人の女が入ってきた。女は一言も話さず、イエスの足もとに近寄り、その足を涙でぬらし始めた。そして、それを髪の毛でぬぐい、足に接吻し、持ってきた香油を塗った。

教皇はこの場面において、律法に熱心に仕えるシモンと、名もない一人の罪深い女の、それぞれの態度を対比。

シモンが見かけによって人を判断するのに対し、罪深い女はその態度を通して自分の心を誠実に表した。シモンはイエスを家に招いたにも関わらず、リスクも冒さず、自分の人生が師イエスに巻き込まれることも欲しないが、一方、女は愛と尊敬をもって完全に自分をイエスに託したと指摘された。

ファリサイ派のシモンは、イエスが罪びとに接触することが理解できず、イエスが預言者であるならば罪びとたちを見分け、自分が汚されないように彼らを遠ざけておくはずだと考えた。

教皇は、シモンのような態度は、神と罪を根本的に相容れないものとして捉えることから起きる、宗教理解におけるある意味典型的な態度であると話された。

しかし、神のみことばは、罪と罪びとを区別することを教えていると述べた教皇は、罪に対して妥協してはならないが、罪びと、すなわちわたしたち皆は、病者のように癒される必要があり、癒されるためには医者に近づいてもらい、見て、触れてもらう必要があると説かれた。

イエスが、罪深い女に汚されることを恐れず、ご自分に触れるがままにされたのは、イエスが神なる聖なる方であり、いつくしみ深い御父の傍にいる自由な方であるためと教皇は述べられた。

ファリサイ派と町の人々の冷酷な裁きによって孤立しているこの女の立場を終わらせるために、イエスは「あなたの罪は赦された」(ルカ7,48)と言い、さらに女の信仰と回心の真摯さを見て、すべての人の前で「あなたの信仰があなたを救った」(同7,50)と宣言した。

多くの罪を赦された者は、イエスに大きな愛を示す一方で、「赦されることの少ない者は、愛することも少ない」(同7,47)とのイエスの言葉に、教皇は「信仰と愛と感謝」の関係を見出された。

信仰の賜物を知り、わたしたちにはもったいないほどの主の大きな愛に感謝するよう招かれた教皇は、神から注がれたその愛をわたしたちもまた隣人や家庭や社会に注ぐことで、主のいつくしみを皆に伝えていこうと呼びかけられた。








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