2016-04-04 15:12:00

神のいつくしみの主日:教皇「平和と和解の道具となり、神の御顔を世に示そう」


「神のいつくしみの主日」を祝った4月3日、バチカンで教皇フランシスコによるミサが捧げられた。

カトリック教会の暦で、復活祭から1週間後の日曜日、「神のいつくしみの主日」が記念される。

また、この日は伝統的に「白衣の主日」とも呼ばれる。これは、古代教会では復活祭の夜に受洗した信者たちが司祭の手から受けた白衣を一週間身につけ、8日後に脱いだ習慣があったことから、このように呼ばれる。

「白衣の主日」と並び、この日を「神のいつくしみの主日」と定めたのは、教皇ヨハネ・パウロ2世である。同教皇は、紀元2000年の大聖年に、神のいつくしみの深さを知り、イエスに信頼することを呼びかけた「神のいつくしみの使徒」ファウスティーナ・コヴァルスカ修道女(ポーランド1905-1938)を列聖すると共に、復活祭直後の日曜日を「神のいつくしみの主日」とした。

今年は「いつくしみの聖年」が開催されていることもあり、ローマでは「神のいつくしみの主日」に向けて、いつくしみをテーマに、司牧者や神学者らによる会議や、信心会や教会運動関係者の集いが行われた。

特に、聖ヨハネ・パウロ2世の帰天から11年を迎えた4月2日(土)には、教皇フランシスコ参加のもと、「神のいつくしみの主日」の前夜の祈りがとり行われた。

そして、4月3日(日)、「神のいつくしみの主日」を迎え、教皇フランシスコは、バチカンの聖ペトロ広場でミサを捧げられた。

ミサの説教で教皇は、福音書とは「神のいつくしみの書」であると強調。そこに記されたイエスの言葉と行いは、御父のいつくしみの表現そのものであると話された。

福音書とはすでに記されたものであるが、同時に開かれたままの書として、これからもキリストの弟子たちの具体的な愛の業や、いつくしみの証しによって書かれ継がれていくべきものと教皇は述べられた。

わたしたちは皆、福音の生きた書記者として、現代のすべての人々によき知らせをもたらさなくてはならないと述べた教皇は、そのためにキリスト者として精神的・物質的いつくしみの業を実践する必要を呼びかけられた。

キリストの受難後、弟子たちは家の中に閉じこもる一方で、復活したキリストは弟子たちに赦しのメッセージを世にもたらすようにと招いた。心を閉ざし自分の中に閉じこもることと、愛の呼びかけに扉を開き自分の外に出ること、この2つのコントラストはわたしたちの中にもあると教皇は指摘。

しかし、復活した師イエスが指し示すのは、唯一つの道、自分の殻から外に出て、人を再び新たにする神の愛の力を証しすることであると説かれた。

「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ20,21)と、閉じこもる弟子たちの家に入り、イエスは言ったが、この同じ平和を今日の人たちも待ち望んでいると述べた教皇は、わたしたちもまた和解の道具となって、御父の赦しをもたらし、そのいつくしみ深い愛の御顔を世に示そうと、信者たちを励まされた。

 

 








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