2016-03-30 17:17:00

罪を清める神のいつくしみ、教皇一般謁見


教皇フランシスコは、バチカンで3月30日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

復活祭直後のこの謁見には、世界各国の巡礼者が数多く訪れた。

教皇によるカテケーシス(教会の教えの解説)では、旧約聖書に見る神のいつくしみをテーマに、詩編51を取り上げながら、「罪を清める神のいつくしみ」を考察した。

「ミゼレーレ」と呼ばれる詩編51は、「神よ、わたしを憐れんでください」という言葉で始まる悔い改めの祈りで、自分の罪を告白し、赦しを乞い、神の愛に清められることで新しい人間となることを願っている。

この詩編はユダヤ教の伝統において、ダビデ王がウリヤの妻バト・シェバを奪い、ウリヤをわざと激しい戦いの最前線に送り戦死させた後、預言者ナタンの叱責によってその罪深さを自覚し、神との和解を求めた時のものと言われる。

この詩編をもって祈る人は、ダビデ王が神に対して抱いたのと同じ悔悛と信頼の気持ちを持つだろうと教皇は述べつつ、ダビデ王の自らの罪を告白し、自身の惨めさをさらすことを恐れない謙遜さと共に、神のいつくしみに対するその確信を指摘された。

「神よ、わたしを憐れんでください
 御いつくしみをもって。
 深い御憐れみをもって
 背きの罪をぬぐってください。
 わたしの咎をことごとく洗い
 罪から清めてください」(詩編51,3-4)

いつくしみ深い神に向けたこの祈りの中では、「ぬぐい去る」「洗う」「清める」といった造形的なイメージが用いられている。教皇はこの祈りには、人間が生きる上で真に必要とすること、すなわち、赦され、悪とその結果である死から解放されることへの願いが表現されていると話された。

残念ながら、人生の中でわたしたちは何度もこうした状況に陥るが、大切なのは神のいつくしみに信頼することと教皇は述べ、「神はわたしたちの罪より、ずっと大きな方です」と説かれた。

こうした意味で、この詩編によって祈る人は赦しを乞い、自分の罪を告白しながら、同時に、神の正義と聖性を祝うのであり、神の赦しの力によって罪は根本から清められ、悔悛者は雪より白くなると話された。

罪びとは、神の赦しによって聖霊と喜びに満ちた新しい人間となり、新しい心と、精神、生活をもって、新しい現実が始まる。神の恵みを受け入れ、赦された者は、他の人々にも罪を犯さないようにと教える力を得ると教皇は述べられた。

「神の赦しはわたしたち皆が必要とするものであり、神のいつくしみの最も大きなしるしです」「赦されたすべての罪びとは、その賜物を出会う兄弟姉妹たちと分かち合うように招かれています」と強調された教皇は、わたしたちが心を清め人生を変える神の赦しの証し人となれるようにと祈られた。

 








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