2016-03-26 23:00:00

2016年度復活徹夜祭:教皇「希望に心を開き、歩き始めよう」


教皇フランシスコは、「聖土曜日」3月26日の夜、バチカンの聖ペトロ大聖堂で「復活の聖なる徹夜祭」をとり行われた。

復活祭前日の「聖土曜日」から、「復活の主日」の夜明けまでの間に、主キリストの復活を待ちながら祈り、その過ぎ越しを祝う荘厳な儀式が行なわれる。復活徹夜祭は、一年間の典礼の頂点である「過ぎ越しの聖なる三日間」のさらなる中心であり、「すべての聖なる徹夜祭の母」といわれる。

この儀式は、教皇による火と復活の大ろうそくの祝別から始まり、復活の光の入堂、復活賛歌の朗唱が行われた。

復活徹夜祭の中では、伝統として成人の洗礼式が行なわれる。教皇はアルバニア、カメルーン、韓国、インド、中国などを出身とする12人の洗礼志願者に洗礼を授けられた。

教皇フランシスコの2016年度復活徹夜祭の説教は以下のとおり。

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「ペトロは墓へ走った」(ルカ24,12)。どのような思いが走るペトロの頭と心によぎったでしょうか。福音書は、ペトロをはじめとする11人の弟子たちは、婦人たちが墓で見聞きしたことを信じず、むしろ「この話がたわ言のように思われた」と記しています(ルカ24,11)。それゆえに、ペトロの心には疑念と共に多くの否定的な考えが浮かんでいました。ペトロは、愛する師が死んだ悲しみと、イエスの受難の際、自分が師を3度「知らない」と否定したことへの失望でいっぱいでした。

しかし、一つの記述がペトロに変化が起こったことを告げています。婦人たちの話を聞き、それを信じなかったにも関わらず、ペトロは「立ち上がった」(同24,12)というのです。ペトロは座ったまま考え込んでいたのではなく、他の弟子たちのように家に閉じこもってもいませんでした。これらの日々の暗い雰囲気に囚われたままでいることも、疑念に引きずられることもありませんでした。後悔や、恐れ、無駄な噂話に心を奪われたままでもいませんでした。ペトロは自分自身ではなく、イエスを求めました。彼は昔のように、出会うことと信じることの方を選びました。そして立ち上がり、墓へ走りました。そしてそこで見たことに「驚きながら」(同24,12)家に帰ったのです。これがペトロの「復活」、彼の心の復活の始まりでした。悲しみや暗い心に負けず、彼は希望の声に語らせ、神の光が心に差し込むままにしたのです。

墓に香料を持っていくという、いつくしみの業を行うために、明け方早く出かけた婦人たちも、同じ体験をしました。彼女たちは「恐れて地に顔を伏せ」ましたが、「なぜ生きておられる方を死者の中に捜すのか」という天使たちの言葉を聞きました(同24,5)。

わたしたちもまた、ペトロと婦人たちと同様、悲しみの中に閉じこもり、自分自身だけに囚われていては、いのちを発見することはできません。わたしたちの中の閉ざされた墓を主に開きましょう。イエスはその中に入り命をくださるでしょう。怨恨の石を、石臼のような過去を、弱さと堕落の重い岩をイエスのもとに運びましょう。イエスは来て、わたしたちの手を取り、苦悩の中からわたしたちを引き出してくださるでしょう。しかし、これは今晩転がすべき最初の石、希望の欠如ゆえにわたしたちを自分自身に閉じ込めている石です。主が復活しなかったかのように生き、自分の問題だけを人生の中心に据えて生きる、希望のないキリスト者という、この恐ろしい罠から、主がわたしたちを救い出してくださいますように。

わたしたちは自分の近くの問題と自分の中の問題を見続けています。問題は常にあるでしょう。しかし、この夜、この問題を復活の光で見つめ、ある意味「福音化」してみましょう。闇と恐れが魂の眼差しを惹き付け、心を奪うことはもうなく、わたしたちは天使のあの言葉を聞くでしょう。主は「ここにはおられない。復活なさったのだ」(ルカ24,6)。主はわたしたちの最大の喜びです。主は常にわたしたちのかたわらにおられ、決してわたしたちを失望させることがありません。

これが希望の基にあるものです。それは単なる楽観主義でも、心理的態度でも、がんばれという招きでもありません。キリスト教の希望は、わたしたちが自分の殻から出て、神に自分を開くことで、神が与えてくださるものです。この希望は欺くということがありません。なぜなら聖霊がわたしたちの心に注がれているからです(ローマ5,5)。慰めの主は、魔法の杖ですべてを良く見せるわけでも、悪を消すわけでもありません。しかし、真の生きる力を呼び覚ましてくれます。人生に問題はつきものですが、そこには常にキリストによって愛され、赦されているという確信があります。キリストは、罪と死と恐れに勝利しました。今日はわたしたちの希望とこの確信を祝う日です。何も、何者も、その愛からわたしたちを引き離すことはできません(ローマ8,39)。

主は生きておられ、生きる人々の間でご自分を見つけてもらいたいと願っておられます。イエスと出会った後、それぞれの人が復活のメッセージを告げることで、悲しみに沈み、人生に光を見出せない人たちの心に希望を呼び起こすよう、イエスから派遣されています。それは今日において大変必要とされていることです。自分自身のことは忘れ、希望の喜びにあふれたしもべとして、生活と愛を通して、復活の主を告げるようにとわたしたちは招かれています。そうでなければ、わたしたちは多数の会員とよい規則を持ちながらも、世界の切望に対して希望を与えることのできない単なる国際組織になってしまいます。

どのようにしてわたしたちは希望を育むことができるでしょうか。今晩の典礼はわたしたちに有益な示唆を与えてくれます。それはわたしたちに神の業を思い出し行なうようにと教えています。実際、ミサの朗読は、神の誠実と、わたしたちに対するその愛の歴史を語りました。生きた神のみことばは、わたしたちをこの愛の歴史に引き入れ、希望を育み、喜びで力づけてくれます。それはわたしたちが耳を傾けた福音書も教えてくれることです。天使たちは、婦人たちに希望を呼び覚ますためにこう言いました。「(イエスが)お話しになったことを思い出しなさい」(ルカ24,6)。わたしたちはイエスの言葉、行われたことを忘れません。さもなくば、わたしたちは希望を失ってしまいます。これに対して、わたしたちは主の記念を行い、わたしたちの心に触れたその愛と言葉を思い起こすのです。わたしたちもまたそれを自分のものとし、夜明けの番人となって、復活の主のしるしを見分けなければなりません。

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、キリストは復活されました!希望に心を開き、歩き始めましょう。キリストの行いと言葉の記憶が、輝き出る光となって、わたしたちの歩みを終わることのない復活へと確かに導いてくれますように。

 

 








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