2016-03-23 16:15:00

神のいつくしみを語る「聖なる過ぎ越しの3日間」教皇一般謁見


教皇フランシスコは、バチカンで3月23日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

謁見中、教皇は前日ブリュッセルで起きた連続爆発テロに言及。ベルギー国民に精神的に寄添うと共に、犠牲者や負傷者のために改めて祈られた。

教皇は、死と恐怖のみを引き起こすこの残酷で忌むべき行為を非難するために一致するよう、善意あるすべての人々にアピールされた。

そして、聖週間中、苦しむ人々の心の慰めと、残忍な原理主義に走る人々の回心を祈るよう呼びかけられた。

この日は、復活祭前の「聖週間」の聖水曜日にあたり、翌日からは「聖なる過ぎ越しの3日間」に入る。教皇によるカテケーシス(教会の教えの解説)では、「いつくしみの聖年における、聖なる過ぎ越しの3日間」をテーマに講話が行われた。

復活祭の日曜日に先立つ3日間、聖木曜日から聖土曜日について、教皇は、神の愛がどこまで及ぶのかを知ることができる、神のいつくしみを語る日々と表現された。

「イエスは、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(ヨハネ13,1)と、イエスの地上での最後の日々を福音書が伝えるように、神の愛には限界というものがないと教皇は強調。

「神はわたしたち一人ひとりにご自分のすべてを差し出され、何一つ惜しまない」、「この聖週間に賛美する神秘は、何も止めることのできない、偉大な愛の物語」と話された。

「聖木曜日」について、教皇は、ゴルゴタの丘での過ぎ越しの犠牲を先取りしながら、イエスが聖体を制定した日と説明。

同時に、イエスが最後の晩餐で、ご自分の愛を理解させるために弟子たちの足を自ら洗い、彼らがどう振舞うべきかの模範を示したことを思い起こされた。

教皇は「聖体とは自ら奉仕する愛」、この世の困難の中を証し人として歩んでいけるように、最も弱い人をはじめすべての人の飢えを満たすことを望まれる「イエスの崇高な現存」であると説かれた。

またそれだけに留まらず、イエスは自らをパンとして差し出しつつ、わたしたちもまたこの糧を裂き、必要とする人々と分かち合うことを望んでおられると指摘された。

次に「聖金曜日」とは、「愛の頂点の日」と教皇は述べ、ここでイエスは全世界の救いのために十字架上で自らを御父に委ね、最後まで与え尽くす愛を表現したと話された。

その愛とは、「すべての人を抱擁し、誰をも疎外しない愛」、「あらゆる時と場所に広がる愛」、「わたしたち罪びと一人ひとりが触れることのできる尽きることの無い救いの泉」であると述べた教皇は、イエスの死を通して究極の愛を表された神に倣い、わたしたちも聖霊に新たにされ、互いに愛し合わなければならないと説かれた。

教皇は、最後に「聖土曜日」を「神の沈黙の日」、「復活における命を待ち望む日」として示された。

墓に葬られたイエスはすべての人類と死を共有し、その沈黙は見捨てられた人々への連帯の愛を語り、その虚無を御子は神なる御父の無限のいつくしみをもって満たすと教皇は話された。

教皇は講話の終わりに、14~15世紀のイングランドの女性神秘家、ノリッチのジュリアンの次の言葉を引用。

「その時、わたしたちの善き主はわたしに尋ねました。『お前は、わたしがお前のために苦しんだことをうれしく思うか』。わたしは言いました。『はい。善き主よ、あなたに深く感謝いたします。そうです、善き主よ、あなたは祝せられますように』。すると、わたしたちの善き主、イエスは言いました。『お前がうれしいならば、わたしもうれしい。お前のために受難し苦しんだことは、わたしにとって喜び、幸せ、永遠の歓喜である。できるならば、もっと苦しんでもよい。』」

教皇はこれらの言葉に、主がわたしたち一人ひとりに示される、無限で広大な愛を観想するよう招かれた。

 








All the contents on this site are copyrighted ©.