2016-03-02 17:54:00

人を回心と赦しに開かせる神のいつくしみ、教皇一般謁見


教皇フランシスコは、バチカンで3月2日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

謁見中のカテケーシスで、教皇は聖書に見る「神のいつくしみ」の考察として、「いつくしみと更生」をテーマに、イザヤ書1章を観想された。

「わたしは子らを育てて大きくした。しかし、彼らはわたしに背いた。牛は飼い主を知り、ろばは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らず、わたしの民は見分けない」(イザヤ1,2-3)

子らを育てたのに、その子らに背かれ失望した父親の苦しみを、預言者イザヤを通して民に語る神の姿を教皇は見つめられた。

神はここで、動物でさえその主人を認めるのに、民がご自分を認めずに理解を拒むことを嘆いている。

親の教育的使命は、子どもたちを自由の中に育て、責任を持たせ、自分と他人のために善い業を行なうことができるように成長させることであるが、罪のために、自由は独立の主張となり、自尊心は対抗意識を生み、自分は一人で生きられるという幻想を持つことになると教皇は述べられた。

これゆえに神は「道を誤った」民たちに愛情と苦悩をもって向かい、「災いだ、咎の重い民、… 堕落した子らは。彼らは主を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けた」という預言者イザヤの厳しい言葉(1,4)を通して、その罪の重大さを理解させようとされたと説明。

罪の結果は苦しみとなり、国もまた砂漠のように荒れ、人の住めない地となる。神を拒否するところには命は育たず、存在はその根源を失うと教皇は話された。

しかしながら、試練は、神を捨てる者が味わう苦痛を民が知るようにと与えられ、罪びとたちの心を回心と赦しとに開かせるものであった。

神はそのいつくしみゆえに、救いのための道を示されるが、神が望まれるのは、犠牲を捧げる儀式ではなく、人々を清め、正義を行なわせることであったと教皇は指摘。

「悪を行なうことをやめ、善を行なうことを学び、裁きをどこまでも実行して、搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ」(16-17)という神の民への願いを示された。

「たとえ、お前たちの罪が緋のようでも、雪のように白くなることができる」(18)、「お前たちが進んで従うなら、大地の実りを食べることができる」(19)という主の呼びかけを、神の赦しの奇跡と呼びつつ、教皇は、今日も神の子として生きるように招かれたすべての者に与えられる、神のいつくしみを強調された。

 








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