2016-02-24 18:32:00

「神のいつくしみと権力」をテーマに、教皇一般謁見


教皇フランシスコは、バチカンで2月24日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、「聖書に見る神のいつくしみ」の考察を続ける教皇は、この日は「いつくしみと権力」をテーマに講話された。

聖書は様々な箇所で、王や上位にいる者など、「権力者」について語り、その傲慢さや横暴さに触れてきたと教皇は指摘。

富と権力は、正義と慈愛をもって貧しい人々やすべての民のために用いれば、共通善に役立つ良いものとなり得るが、それが一つの特権として自己中心的、高圧的に用いられる時、腐敗と死の道具に変ってしまうと話された。

教皇は権力の横暴の例として、旧約聖書・列王記上21章にある「ナボトのぶどう畑」の話を取り上げられた。

イスラエルを支配する王アハブは、ナボトという人が所有するぶどう畑を、宮殿に隣接しているという理由で買い取ろうとし、よい条件を提示した。しかし、イスラエルにおいて土地は主の賜物として聖なるものであり、実際、ナボトは「先祖から伝わる嗣業の土地を譲ることはできない」と王からの話を断わった。

ナボトの拒否に王はひどく機嫌を損ねた。そこに介入した妻のイゼベルは、「今イスラエルを支配しているのはあなたです」と言い、ナボトのぶどう畑を手に入れるために、彼女が考える「権力」、すなわち王のすべての望みは絶対命令であるという考えを行使した。そして、王の名で長老たちに手紙を書き、ナボトが神と王を呪ったという讒言のもとに、彼を殺害させた。

このエピソードに見る王の「権力」と対比し、教皇はイエスの「支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなた方の間では、そうであってはならない。あなた方の中で偉くなりたい者は、皆に仕えるものとなり、一番上になりたい者は、皆の僕になりなさい」(マタイ20,25-27)という言葉を思い起こされた。

「しかしながら、神は人間の悪や不正な業よりもっと偉大であった」と述べた教皇は、神がそのいつくしみによって預言者エリヤを遣わし、アハブの回心を促し、その罪を理解したアハブが打ちひしがれ、赦しを求めた経過を教皇は説明された。

主はアハブの悔悛を受け入れられたが、いずれにせよ、彼の罪の結果として一人の無実の人が殺されてしまった。このように悪は苦しみの跡を残し、人間の歴史は傷を引きずるが、こうした中にも、神のいつくしみの業は進められていくと教皇は説かれた。

イエス・キリストは真の王であるが、その権力はまったく違うものであると述べた教皇は、その王座としての十字架、殺すことなく命を与え、弱い者に寄添い、罪の結果である死に打ち勝つイエスの王としての姿を観想するよう招かれた。








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